岩田規久男『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』

 デフレ脱却をめぐる論争でしばしば目につくのは、岩田先生が冒頭で書いているように「些細な問題点や私の提案する政策を実施するにあたっての技術的な困難などを指摘して、私の議論のすべてを否定しようとするものが少なくな」く、「なかには、私の提案をすすめたときに万が一起こるかもしれない極端なケースをとりあげて、それがあたかも普通に起きることであるかのように主張して、反対する」傾向である。

 このような論争経験を長年積み重ねてきて、岩田先生は福澤諭吉の『文明論之概略』に出会う。より正確にはその本を注釈した丸山真男に出会ったのである。

 岩田先生は次のように書いている。

「『文明論之概略』は、「長く続いてきた習慣や伝統には、それ自体に内在的価値があると思い込み、それを墨守すること」を「惑溺」と呼び、そうした「惑溺」を一掃した本である」。

 この「惑溺」こそ、デフレ脱却問題でしばしばぶち当たる日本銀行の政策スタンス、つまりは官僚的な前例踏襲主義の別様の表現であろう。

 さて実際の中味はさらに斬新である。たぶん多くの人が長年疑問に思ってきた、「朝日新聞天声人語ってそんなにいい文章なのか?」というものに、冒頭から岩田先生はずばり「No!」と断じている。福澤の発言を引用しながら、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると。

 確かに日本でしばしばみる議論はいったい何が議論の本位(テーマ)なのかわからないものが多い。政策にいたってもそうだが、官僚的にはさまざまなオプションだとか、さまざまな目的をもたせて単一の政策を「パッケージ」化することが多い。パッケージ化するといろいろな人が納得しやすくなるからと「惑溺」として官僚や政治家が思っていることでこの種の政策のパッケージ化が喜ばれる。しかし政策にはそれに適切な目的が割り当てられるべきだが、日本の現状ではそれが毎度あやふやである。その典型が私見では「構造改革」の「構造」である。これも提唱している人たちが「構造」という慣習的用語に「惑溺」してしまい。それが具体的に何を本位としているのか明示しようともせず、おそらくわかってもいないのことがしばしばである。

 岩田先生はそのような議論の本位を逃した議論として、大相撲の野球賭博問題を例示していて、これも面白い議論になっている。さらに興味深いのは、本書の中盤の議論だそこには福澤の発言に基づいた自己責任論が明記されている。

「(略)多くの日本人の責任の取り方は、福澤のいうように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである」

 これは別エントリーに各つもりだが、京大などでのカンニング事件にもまさにあてはまることだと僕は思っている。岩田先生はこのような事態が生じるのは日本では個人の自立が難しい環境あがるからだと指摘する。

 ではどうするべきか。「惑溺」を避け、因習にとらわれず、多事争論を支持し、極端主義(これは僕流には湛山のいった根元病も同じに思える)を避けることなど、本書の後半にはその知恵が詰まっているだろう。

 あまりに面白いので全部中味を要約してしまいそうになるが、ぜひこのエントリーを読んで満足することなく、関心をもたれた人はぜひ一読されるべきである。岩田先生が福澤諭吉という「古典」を現代をするどく批判する武器として再生することに成功していることがよくわかるだろう。傑作である。

福澤諭吉に学ぶ 思考の技術

福澤諭吉に学ぶ 思考の技術