飯田泰之『ゼロから学ぶ経済政策』

 経済政策を初心者にもわかりやすく解説することを目的とした飯田さんらしいコンパクトでわかりやすい新書だと思います。岩田規久男先生との共著『ゼミナール経済政策入門』の準備段階としてぜひ読んでもらいたい本でもあります。

 まず本書は「幸福」を経済政策の目的として議論していきます。不思議なものですが、経済学はレトリックとして「人々の幸福を改善する」とはいますが、なかなかちゃんと定義されたものとして「幸福」をつい最近までその政策目的としてはいませんでした。ここで飯田さんが定義されたものとして「幸福」を経済政策の目的として、それを入門段階で議論しているのは本書の最大の特徴といえるでしょう。

 ところでこの本は実践的で割り切りのいいやり方でこの「幸福」を扱っている点にも特徴があるといえそうです。冒頭、飯田さんは「幸福」には二種類の視点があると提起しています。1)そもそも国民の幸福とは何かを価値判断を含めて考えてそれを「幸福度指数」のような集計量にまでまとめるやり方、2)価値判断を極力排除して、パレート改善型の幸福を考える。

 後者の方は、「ある人は今よりも幸せになって & その人以外のみんなは少なくとも今より不幸になっていない」ならば世の中が改善したと考える立場です。

 ここで本書の扱う3つの経済政策(成長政策、安定化政策、再分配政策)のうち、前二者はパレート改善的な幸福の問題でほとんど考えることができ、最後の再分配政策だけ幸福度指数的な話題が関係してくると、見通しを述べています。この技術的な割り切りは面白いのですが、読者としてはふたつの幸福をめぐる価値観(パレート改善的な幸福も弱いものとはいえ価値観をもっています)が経済政策の間で対立や補完する可能性に思い至ることでしょう。この点についてももちろん本書は下にも書きましたが基礎的な議論を提供しています。

 さてしばしば日本でも議論されているのは、経済的な豊かさの増加が、幸福を向上させるかです。これについて飯田さんは本書の冒頭で、ブータンなどの議論を例にあげたりして、簡潔に、経済的な貧しさが幸福度を向上させることはまずない、ということを例証します。これは重要な指摘、というか僕には常識に思えてるのですが、日本では一部の論者は「経済成長をあきらめてみんないまより貧しくなればハッピー」に類したことをいっているのを耳にするにつけて、この飯田さんの議論は大切ですね。

 あたりまえですが、人の幸福は経済的豊かさだけではなく、多様な要因がからんでくるものであります。ただ単に経済的貧困を称賛することが幸福に繋がる(逆に経済的豊かさだけが幸福につながる)と狭隘に考える必要はないわけです。経済学は単に自分で語れる守備範囲を限定して(価値判断をとりあえずめーいっぱい縮減して)発言しているだけなのですから。

 本書でいう安定化政策というのは簡単にいうと景気にかかわる政策、成長政策というのはいまも少し議論した一人当たりGDPを議論する政策、そして再分配政策は本書の立場を簡潔にいうとそれは「保険」の問題といえます。

 ジョン・C.ハーサニーの「公正観察者」(飯田さんはそれを人間がまだコウノトリの籠の中にいる「命の種」の段階での観察、という可愛い比喩を利用します)という概念を利用して、再分配政策を「命の種への段階で加入した保険」とします。

 「再分配政策はこのような生来の不幸、いわゆるハンディキャップだけではなく運や性格や気質まで含めたものへの保険という性質だけではなく、安定化政策や成長政策のサポートとしての役割もあります」

 ここで公正な観察者からみた保険としての再分配政策は、不幸を縮減する社会的な仕組みとして、パレート改善的な幸福の増加をめざす成長政策や安定化政策と補完的な役割にあるといえます。ただ冒頭でのふたつの幸福の視点のうち、ここで語られている公正な観察者からみた保険としての再分配政策は、あくまでもパレート改善的な幸福という視点から語られたものだといえることに注意しておきましょう。
 
 本書の半分をしめる成長政策や安定化政策はぜひ同書を手にとってその中身を読んでいただきたいのですが、僕が個人的に興味を特に魅かれたのがやはり再分配政策のところです。いままで書いたきたところもそうなんですが、岩田先生との共著と今回の本との差異は、やはり幸福という考えを実践的に導入しているところ(保険としての再分配政策もそのような実践的な視点からのものです)だと思います。

 再分配政策の章もパターナリスティック・リバタリアンの視点への配慮、ベーシック・インカムとその現実的設計、いまの日本の社会保障制度の問題点など話題は多彩です。

 しかし本書の冒頭で飯田さんがあげた幸福指数的な議論と、公正な観察者からみた保険としての再分配政策(これは上に書いたようにパレート改善的な幸福を不幸の縮減から見たものです)との拮抗というか、対立的な局面が、僕にはあまりはっきりと論じられていないことがちょっと不満といえます。というか本書の冒頭で「そして経済成長や景気対策の側面で生じた貧富の差や損得に対応する第四章の再分配政策にいたってはじめて幸福指数タイプの議論を行えばよいのです」としながら、実際には再分配政策のところでも、パターナリズム自由主義との議論のところで、この幸福指数タイプの議論をパターナリズムの議論と結び付けてそれをそれを事実上議論から放逐する記述を採用しています。なので本書全体はパレート改善型の幸福で経済政策の成果が評価されることになっています。

 個人的には幸福指数タイプの議論をパターナリズムにあずける議論がはたしていいのかどうか疑問を抱くのも事実です。いや、正しくいうとここで幸福指数のタイプの議論が行われているのかどうかさえも僕は十分に判断しかねているのです。簡単にいうと幸福指数タイプの議論(国民にとって優先されるべき幸福とはそもそも何か)は実は本書では論じられていないのではないか、というのが僕の疑問です。

 本書は非常に簡潔に整理されていて、また岩田先生との共著からどのように飯田さんが政策論争の中で自らの考えを深めていったかがわかり勉強になる本です。いくつかの疑問もあったのですが、経済政策を語る統一的な視点を得るための最初の一歩として広くすすめたいと思いました。