フリードマンは黒人の差別問題を人種差別されるからではなく努力が足りないからだ、といったのか?

 いってるわけない。


まず内橋克人『悪夢のサイクル』(文藝春秋社)より引用


<アメリカではケネディ政権の時代、黒人差別の問題が社会的関心を呼ぶようになりましたが、フリードマンはこうした政府による自由競争への介入にも反撥し、『資本主義と自由』の中でも、「最大限の競争が自由に存在する諸領域では、特定の有色人とか宗教とかの集団に対する差別は最も少なくなる」と断言しています。
「黒人の差別問題は貧困問題である。彼らが収入の高い仕事につけず、不況になると真っ先に解雇されてしまうのは、十代のときに怠けて勉強しなかったため、企業が必要とする技能を身につけていないことが理由である」と主張しました。
 つまり黒人の社会的地位が低いのは、人種差別だれるからではなく努力が足りないからだ、というわけです(91-2頁)>引用終わり。


 まず最近老眼気味ゆえに見落としてたらスマソだが、『資本主義と自由』の中には、「黒人の差別問題は貧困問題である。彼らが収入の高い仕事につけず、不況になると真っ先に解雇されてしまうのは、十代のときに怠けて勉強しなかったため、企業が必要とする技能を身につけていないことが理由である」などという文言はない。またこれと同趣旨で黒人の差別問題を論じている箇所もない。


 『資本主義と自由』にはもちろん人種差別問題を大きく1章さいて論じているし、また関連するコメントが広範囲に散見する。その趣旨は機会の平等を確保し、競争市場が人種差別という事態を大きく改善する、というものである*1。もちろん現時点のアメリカではそのような機会の平等が保たれていないことが大きな問題としてフリードマンは論じている。さらに競争市場がうまく機能したとしても人種差別がすべてなくなるなどとはフリードマンは考えていない。人種差別を感情レベルで頑迷にもつものに対して、フリードマンは「けれども言論の自由に基礎をおく社会でわたしのとるべき妥当な手段は、彼らの嗜好はよろしくないので、彼らは自分の意見や行動を変えるべきだと説得に努めることであって、わたしの嗜好や態度を他人に押し付けるために強制力を用いることではない」(邦訳126頁)。差別は複雑な感情と行為ではあるが、その経済的な側面の特徴として、差別問題が保護貿易や関税の問題と類似しているというベッカーの主張も注釈で紹介しており、『資本主義と自由』の視点もまた同じものだといえる(もちろん何度も書いてもいいが経済問題を片付ければ差別の問題が消えるなどとフリードマンは決して楽観してはないいと思う、それと同じくらいか以上に書いていいいが競争市場が差別の経済的問題の側面を大きく解消するとフリードマンが強調していたことも忘れるべきではない)。


次に宇沢弘文氏の『ヴェブレン』からの引用。


<その頃、経済学部のワークショップで、フリードマン教授がセミナーをしたことがある。当時黒人問題がようやく深刻な政治的、社会的問題として、人々の関心を惹きはじめていた。フリードマン教授は、黒人問題は経済的貧困の問題であると位置づけて、つぎのような主張を展開したえきのである。
 黒人は平均して、学歴も低く、技術的知識ももたず、技量的熟練度も低い。したがって、一般的に限界的な雇用の機会しかもつことができず、賃金水準も低く、また経済的不振のときには最初に解雇される運命にある。しかし、フリードマン教授はつづけていう。大多数の黒人たちは、十代のときに、勉強して上の学校にゆくか、あるいは遊ぶかという選択に迫られたときに、遊ぶということを自ら選択して、その結果、学歴も低く、技術レベルも低く、経済的貧困を味わうことになったのである。したがって、黒人の経済的貧困は、各人が合理的選択の結果として起きているのであって、その選択がいいとか悪いとか、私たちは経済学者として何ら主張することはできないのだ、と。このフリードマンのセミナーに出席した人々はみな、唖然として言葉もなかったが、一人の黒人大学院生が立ち上がってこういったのである。「プロフェッサー・フリードマン、私たち黒人に、自分の両親を選ぶ自由があったのでしょうか」>(182-3頁)。


 先に書いたように、人種差別の経済的問題の大きな側面は、人種差別感情やまた特定の集団を排除することで利益を得るインセンティブに基づいた競争の制限=選択の自由の制限である。ここでは一例で西山千明先生とフリードマンとの対談が収録された『フリードマンの思想』から引用してみよう。


フリードマン そうです。強力な労働組合があって、それぞれの分野で文字通りの独占体をつくり出した。そして組合員の数を限定することによって高水準の賃金を確保しようと、黒人たちを締め出したからです。
 西山 そこで黒人たちはどうしましたか。
 フリードマン 職業選択の自由や競争の自由のある場所、つまりショー・ビジネスなどで成功の機会を発見したわけです。そのように、競争的資本主義は、その社会で少数派だったり、大多数から差別されている人々に、その能力を発揮させる機会を提供できるわけです。
 略
 フリードマン  略 差別を完全になくすには、その社会の性格を変える以外にはありませんが、それは政治力ではできません。どのような組織のあり方が差別の犠牲を最小限にすることができるかというと、答えは、自由な企業制度のほかにありません」(32頁)。


 さらに、宇沢氏が書いたセミナーが行われた当時(1967年と思われる)に、フリードマンが大学の講義で使用していたテキスト『価格理論』(以下の引用はまさに67年版のもの、西部氏も訳に加わって好学社から出ていた)には人種差別問題について以下のように書かれている。


「明らかに、黒人は職業選択において白人と同じ立場にはなかった。彼らは訓練と教育を受けるに当って同じ可能性を有してはいなかったが、その理由の一部は公共施設の利用可能性が軽んじられたことであり、一部は民間団体における人種差別である。しかし肌の色の影響はこれよりもはるかに複雑である。顧客と同僚の労働者の双方の偏見のせいで、黒人であることはある職業においてはより低い経済的生産性を伴い、またしたがって肌の色は所得に対して能力の格差と同じ効果を与える。その結果、肌の色による人口の階層化は明らかに、合衆国における収益の非均等化格差を生み出す最も強力な要因の一つになっている」(邦訳265頁)。


このフリードマンの発言と宇沢氏の発言の差異は明白であろう。差別(その動機は感情レベルから特定団体の経済的動機まで含まれる複雑なもの)による選択の自由の制限を削減することが、フリードマンが経済学者としてまず第一に行うべきことだったわけであり、何も選択の自由の制限を受け入れて低い経済的生産性やまっさきに解雇される状況に陥っているのは努力不足だ、などとはかかれてはいない。またフリードマンは親の所得の制限も問題視していてこれは資本市場の欠陥にも問題があるとしていることを付言しておきたい。

*1:『資本主義と自由』よりの引用をひとつ。「自由市場は経済的効率性をそれとは無関係な諸特性から切り離す。略パンを買うひとはそれが白人の栽培した小麦から作られたのか、あるいは黒人の栽培した小麦からなのか、キリスト教徒のか、それともユダヤ人のかといったことを問題にしない。その結果、小麦の生産者は、彼が雇用する人々の人種・宗教あるいはその他の特徴に対して社会がどのような態度をとっているかにかかわりなく、資源をできるだけ効率的に利用することができる。それに加えて、おそらくもっと重要なことは、自由市場には経済的効率性を個人のほかの諸特性から切り離そうとする経済的誘因が存在する。ある実業家とか企業者とかが自分の事業活動において、生産的効率性と関係のない選好をあらわすならば、彼はそうでない人々にくらべて不利になる。そのような個人は事実上、こうした選好をもたない人々よりも高い費用を自分自身に負わせることになる。そのために、自由市場では後者の人々が彼を駆逐することになりがちである」(邦訳124頁)