ボ版・経済論戦その3

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3 反経済学

 金子氏らの「セーフィティネットの経済学」は、構造問題主義への批判だけではない。彼らの経済思想は、そのルーツにおいて反経済学的思考と類縁性が強い。このことは金子氏の経済論壇デビュー作のひとつである『反経済学―市場主義的リベラリズムの限界』(新書館、1999年)や『経済の倫理―反経済学からの問い』(新書館、2000年)などの題名からもわかるだろう。このときの反のつく「経済学」が、卑近には竹中平蔵氏らの主張する構造問題主義、その国際版である経済のグローバル化規制緩和や政府組織の民営化などの効率性向上政策)であることがわかってきた。おそらくこの「経済学」のイメージは、ほぼ本稿でいうところの反経済学、そして「市場原理主義」批判の立場にたつ人たちのおおよその合意する姿であろう。ここでさらに反経済学の批判を正確につかむために、彼らのイメージする「経済学」の核心部分を整理しておく。

経済学の基本的な考え方は、「市場の法則」に代表されている(そのため批判側は“市場”原理主義と命名する)。この「市場の法則」とは、個々の消費者や企業が自分の満足や利益を追求して行動することが、結果として社会全体の富を最大化する、あるいは資源の配分を効率化すると考えるものである。

 例えば企業の利益追求を端的に表現したのが、供給行動であり、それに対して消費者の満足追求を表現したのが需要行動である。企業は価格が高ければ高いほど自らの利益が大きくなるのでより多くモノやサービスを市場に提供しようとする。他方で消費者は、価格が低ければ低いほど、安く自分の要するモノやサービスを得ることができるのでより多く求めて行動する。そのため企業者の供給行動は、右上がりの供給曲線(価格が高いほど供給量は大)として表され、他方で消費者の需要行動は、右下がりの需要曲線(価格が低いほど需要量は大)で表される。

 市場で取引されるモノやサービスの取引は、需要曲線と供給曲線の交点で決まる価格と取引量で行われる。このときの価格と取引量をそれぞれ、均衡価格と均衡取引量という。もしこの需要と供給がアンバランスになっても、「市場の法則」が働き、均衡価格と均衡取引量がつねに成立すると考えられる。たとえば、均衡価格より高い価格で取引があった場合には、供給が需要を上回る(超過供給)ので、企業側は価格をさげないと自分の手元もモノやサービスを売り切ることができなくなる。これは超過供給がなくなる価格、すなわち均衡価格まで価格を下げることで解消される。また反対に均衡価格よりも低い価格の場合には、今度は需要が供給を上回る(超過需要)ので、売り手側は少し価格をあげても買い手を失うことなくより大きな売り上げを確保できる。そのため価格は超過需要が存在するかぎり上昇し、均衡価格でそのような価格の動きは終わる。価格が伸縮的に需要と供給がクリアするように調整することで、適切な資源の配分(買い手も売り手もともに買いたいものを買い、売りたいものを売っている)が可能となるのである。このような価格のシグナル機能に依存しているのが「市場の法則」である。

ところで現在の経済学の主流派のひとつである(ひとつである、とは他にも主流をなすグループが存在することを意味する。第5節を参照)新古典派経済学は、この市場の法則が、あらゆる市場で機能していると考える傾向をもっている。例えばさまざまな消費財やサービスを扱う財市場だけではなく、労働市場、資本市場の各々で価格が正しく機能してかならずそれぞれの財が需要と供給が一致して取引が成立するものと考えられている。そのため各市場で取引される財は、売れ残り、失業、遊休資金の存在などを想定されていない。そして金子氏ら反経済学、反市場原理主義に立脚する立場からする批判を最もうけているのが、この新古典派経済学である。

 ところで金子氏らは、新古典派経済学の中心である「市場の法則」そのものを完全に否定しているのではない。「市場の法則」=価格のシグナル機能しか経済システムの調節手段を認めない新古典派経済学の立場を否定しているだけである。

 90年代から今日までの長期停滞を、金子氏らは経済の多重フィードバック機能という調節機能が、例えば不良債権問題などで破綻したことに原因を求めている。そして不良債権問題を、「市場の法則」によって解決しようとしても、「結局、経営者は責任逃れに終始して、査定をゴマカシたままにする。そのため、正しい情報が流れず、ツケの先送りだけが繰返される」(前掲書、76頁)。したがって市場の提供する価格シグナル機能は、あくまでも多重フィードバック機能のごく一部分にしかすぎないのであり、経済がダメージから本格的に回復するには、単純な処方箋ではなく、より複雑な処方箋(セーフィティネットの全面的張替え)を要求すると彼らは考えているようだ。
 ところでセーフティネットを全面的に張り替える前に、なぜか日本の不良債権問題は事実上終焉した(もちろん理由はある。「はじめに 第5節」参照)。いま反経済学的思考は異なる多重フィードバック機能の破綻を見出しているところだ。いわゆる「サブプライム問題」である。

サブプライム問題」の「サブプライム」とは、サブプライムモーゲージという信用度の低い貸し手への不動産融資のことをいう。サブプライム危機の基本的なシナリオは、1)住宅ローンの焦げ付き→2)金融機関の不良債権増大→3)貸し渋りだとか株価低迷だとか→4)消費や投資の落ち込み→5)アメリカ経済減速→6)世界への波及→以下悪化が続く、というものだろう。このサブプライム危機については、第3章で最近の経済論壇の様子とあわせて検討していく予定である。ここでは反経済学的思考の見本として、本山美彦大坂産業大学教授の著作『金融権力』(岩波新書、2008年)をとりあげる。本山氏は正統派経済学への批判を含めて大よそ以下のような論を展開している。
このサブプライム危機は、今般のグローバリズムの進展が必然的にもたらした、リスクテイキングの行き過ぎ(=投機経済)に基づいたものである。この投機経済のイデオロギー的背景は、ミルトン・フリードマンを中心とするシカゴ学派経済学(=本山の用語ではないが市場原理主義新古典派経済学の代表的イメージを指すものとしてしばしばとりあげられる)にある。

 金儲けや投機に走る、ウォール街IMF、ワシントンの政治家、シカゴ学派的経済学者たちが推し進める「ワシントンコンセンサス」(資本の自由な移動、金融の自由化、各国の規制緩和などの自由市場化政策)がサブプライム問題の本質であった。これら金融権力の申し子たちをいかに規制するかが今後の課題になるだろう、と本山氏は考えている。この金融権力に対抗するためには、生産のため、あるいは生活のための金融のあり方が必要となるだろう。その際に参考にすべきは、人民銀行、NPO銀行、グラミン銀行、ESOP(従業員持株制度)などである。これらによって「労働によって得られるはずの人間社会の意義」を回復し、「「自由」の美名の下で金融ゲームに走る金融権力」を規制すべきだ‥‥‥以上が本山氏の主張である。

 ところで、この本山氏の発言には、ほぼ早稲田大学教授の若田部昌澄氏が「経済政策における知識の役割」(野口旭編著『経済政策形成の研究』(ナカニシヤ書店、2007年)の中で、反経済学的思考に対応するものとして列挙した四つの認知バイアスがほぼすべて含まれている。なお「認知バイアス」の「バイアス」は歪みを意味するが、これは経済学からみた歪みであり、経済学を否定する立場からみれば歪みとはいえないかもしれない。

若田部氏が鋭利に整理しているのは、1)反市場バイアス:市場で需給関係で価格が決まるのではなく、「儲けよう」とする企業の「強欲」が価格や市場の成果に反映されていると解釈する。本山氏の主張では「金融権力」の申し子たちの動機こそそのような強欲であろう。2)反外国バイアス:外国との取引からもたらされる利益を過小評価し、むしろ外国との取引が国内経済を不安定化してしまうと理解する傾向があること。本山氏の主張では、資本自由化などの自由競争市場政策が国内経済のみならず世界経済の不安定材料となっている。3)もの作り・仕事バイアス:「汗水垂らす仕事」が尊く、「雇用への影響」を過大視するバイアス。これは反面で技術革新やダウンサイジングなどを過大に評価する傾向とも結び付く。もちろん投機経済はその意味で否定的なものとなる。4)悲観バイアス:文字通り悲観する傾向に思考が歪んでいることである。

 本稿では、この若田部氏による認知バイアスの四類型が題材や名称を変えながらも何度も繰り返し登場してくることに読者は注意されたい。