日中経済学交流史その1

日中経済学交流史--近代からの視線
田中秀臣

 日本の明治以前の経済学は儒学思想の影響を強くうけた。例えば、日本の経済思想の中でその黎明期に活躍した新井白石荻生徂徠、太宰春台、三浦梅園などは、四書五経に散見されている経済思想やまた『管子』や『塩鉄論』などの後代の作品からも影響をうけている。明治以前は中国の経済思想からの完全な入超といえる。

 儒学的な中国経済思想の影響は、明治以降も河上肇、田島錦治、内田銀蔵らの著作に明瞭にみることができる。しかし明治維新を契機にして、日本の経済学は中国の経済思想の伝統を摂取するよりも欧米の経済学の輸入にまい進した。

 事態は中国本土においても異なることはなかった。1860年代以降、アロー戦争の敗北、太平天国の乱を通過することによって、清朝内部に「洋務派」(欧米の技術・軍備・文化を摂取して列強に対抗する立場)が台頭し、経済学においても積極的に欧米の経済思想の紹介が試みられた。

 まず本報告では、中国への欧米の経済学流入という事態を簡単に整理し、その文脈の延長として日本経済学の流入という事態を説明する。
 中国教育界・知識人社会への欧米経済学の導入を語る上で見逃せないのが、キリスト教宣教師たちの中国での教育活動である。1867年に宣教師のW.Martinが同文館において「富国策」という講義を開始した。「富国策」とは経済政策を概ね指す言葉である。Martinはテキストとして、H.FawsettのMannual of Political Economy(1863)を使用した。Martinの講義を同文館副主任である汪鳳藻が1882年に中国語訳として『富国策』として出版した。

日本でもこのFawsettのテキストをもとにした中訳講義録は、同じ題名で岸田吟香による訓点を付して刊行された(1881年)。このMartinの講義録の中訳は、杉原四郎(1980)の指摘にもあるように、明治期の中国から日本への数少ない導入例である。さらに1886年に『富国養民策』として宣教師J.EdkinsがW.JevonsのPolitical Economy(1878)を翻訳した。李×能(1988)によると、1898年までの欧米経済学の導入は12種類26冊であった。これは明治初期における日本での欧米経済学の導入の数量に比較すると格段に劣るものであり注目すべき事実である。他方で、同時期の日本から中国への経済学関連書の輸出事例は一件である(譚汝謙『中国訳日本書総合目録』によると明記されてはいないが、巻末の文献情報から『萬国通商史』(1895)であると思われる。同書はR.Somersによる原著を古城貞吉が訳し経済雑誌社から出したものの重訳である。上海の南洋公学から出版された)。

 さて日本と中国の経済学が近代(本報告では明治以降を指して近代とする)以降、真の意味で交流を果たしたのは、清朝内部における「変法運動」(政治制度の改革による富国強兵運動)の挫折を契機としてである。変法運動の中心人物であった梁啓超は戊戌の変(1898)により失脚し、日本へ亡命した。梁は日本で天野為之から経済学の手ほどきをうけた。天野の経済学はJ.S.Millの伝統にたつ自由主義経済学であったが、梁はむしろ天野との対話から国家経済の重要性を認識した。

 梁の国家経済の確立の必要性に対する認識は、彼が著した中国最初の欧米経済学史である「生計学学説沿革小史」(1903)に明瞭に洗われている。森時彦(2000)の指摘の通り、この論文はJ.K.Ingram、L.Cossa、井上辰九郎らの日本語による経済学史をベースにしたものであり、その特徴はドイツ歴史学派的な観点から国家の経済的介入の重要性を強調したものである。総じて、梁の問題意識は中国「国家」の確立という論点をめぐるものであったといえよう。1898年から1911年の辛亥革命に至るまでの欧米経済学の翻訳やまた中国人の手になるその概説や紹介書の数は、李×能(1988)によれば42種54冊であった。同時期の日本経済学の輸入は、天野為之、和田垣謙三、金井延らの著作を中心にして30種類ほどが紹介されている。

 中華民国建国後は、欧米経済学(西方経済学と表記されていた)、日本経済学(日本語訳の欧米経済学を含む)の輸入が爆発的に増大した。これは清朝末期からの有能な日本への留学生たちが帰国し、日本語からの翻訳が盛んになったという背景がある。そのため中国留学生が多かった京都大学早稲田大学などの教員の著作が特に多く中訳された。

 西方経済学の輸入の特色は、1919年の五・四運動前後におけるマルクス主義経済学文献の爆発的な導入という現象はおくとしても、学派によらずにドイツ歴史学派、Bohm-Bawerkらオーストリア学派、A.Marshallらのケンブリッジ学派、アメリカの制度学派などの業績が雪崩をうつようにあまり系統的ともいえない形で一斉に流入していたことにある。ただイギリス古典派はSmith、Ricardo、Malthus、Millらの代表作の翻訳はあるものの量的には少数(一桁台)であった。またMarshallのPrinciples of Political Economyは1932年に中訳がでたものの訳の評判が悪く、北京大学では主に原書の購読が盛んに行われていたという(同時期の西方経済学の導入状況を、日本で先駆的に研究したのが、遊部久蔵(1942)である)。

 民国時期(1911-1949)に出版された日本の経済学書は、未確認部分が多いが、『民国時期総書目 経済(上下)』、『中国経済学図書目録1900-1949』、『中国訳日本書総合目録』さらに河上肇の単行本についての米浜泰英の調査などを考えると500種以上の経済書が刊行されたと思われる。

 人物別では、毛沢東周恩来、そして中国共産党の創設者のひとり李大?に影響を及ぼしたといわれる河上肇が15件でトップ。次に山川均(11)、高橋亀吉(8)、北沢新次郎(8)、高畠素之(7)、石浜知行(6)、野村兼太郎(5)、河田嗣郎(5)、上田貞次郎(5)、小林丑三郎(5)と続く(『中国経済学図書目録1900-1949』をもとに作成)。

 本報告では、上記のような概観を説明した上で、日本の近代経済学の代表者である福田徳三がどのように中国の経済学の中に導入されたかが、各論的に紹介された。この福田徳三の事例については、報告者の「福田徳三の中国への紹介」(三田剛史氏との共著)『メディアと経済思想史』第二号所収を参考されたい。

参考文献
遊部久蔵(1942)「支那輸入経済学の特質と背景」『三田評論』六月号
杉原四郎(1980)『日本経済思想史論集』未来社
譚汝謙主編 (1980)『中國譯日本書綜合目録 』中文大學出版社
談敏主編(1995)『中国経済学図書目録1900-1949』中国財政経済出版社
北京図書館編(1993)『民国時期総書目 経済(上下)』書目文献出版社
森時彦(2000)「梁啓超の経済思想」(狭間直樹編『共同研究 梁啓超みすず書房所収)
李×能(1998)「西方資産階級経済学在旧中国的流伝」『中国大百科全書 経済学』中国大百科全集出版社