宇沢弘文と社会的共通資本の経済学

『電気と工事』2015年5月号掲載

 東京大学名誉教授で、日本の経済学の発展に大きく寄与した宇沢弘文が昨年亡くなってから、その業績を再評価しようという動きが急である。また書店にいくと旧著の再版や特集雑誌もでている。本誌でもとりあげたトマ・ピケティの『21世紀の資本』ほどのブームではないが、それにしてもよく読まれているようだ。

 宇沢が逝去したときに、ネット記事で追悼をかねて、宇沢の業績について簡単にまとめたことがあった(「経済学者・故宇沢弘文、なぜ偉大?業績を5分で学ぶ 経済成長至上主義と市場経済の弊害」http://biz-journal.jp/2014/10/post_6214.html)。

 宇沢は経済学にふたつの大きな業績を残していると思う。ひとつは、いわゆる新古典派経済学の中で、特に経済成長がどのように実現し、またどのようなケースでその成長過程が安定的なものになるのか、あるいは経済危機など不安定なものになるのかを解き明かした。

ここでいう「新古典派経済学」というのは、市場に存在するさまざまな資源(人、おカネ、モノなど)を効率的に利用することが価格の機能によって実現できると考えるものだ。例えば、コンビニで売られているおでんの価格はどのコンビニチェーンでも似たり寄ったりだろう。その理由は競争原理が働くことで、自分のコンビニの都合だけで価格を設定できないことによる。例えば、ほかのコンビニよりも高い価格を設定すれば、同じおでんを売るかぎり買い手を失ってしまうだろう。この価格を通じての競争に直面した、おでんを買う人と、売る人双方は、その価格で取引がおこなわれるときに、両方ともに満足を最大化できると考える。これが新古典派経済学の素描だ。

宇沢はこのような新古典派経済学の考え方の内部で、つまり価格を通じた競争が機能する中で、経済成長がどのように安定化するのか、不安定化するのかを世界の経済学者の中で深く考えたひとりであった。

ところが、宇沢のもうひとつの大きな貢献は、この新古典派経済学自体を根底から覆すか、あるいは少なくとも(緊張的な)補完関係にあるものだった。この方向の宇沢の考え方は、彼の「社会的共通資本」の中に典型的に表れている。大気、河川、土壌などの自然資本、道路、橋、港湾などの社会資本、医療、教育、金融システムなどの制度資本を、政府が安定的に提供することで、市民が最低限度の生活を送りやすくするという構想だ。

「社会的共通資本はいいかえれば、分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的になるような制度的諸条件であるといってもよい」(宇沢弘文『社会的共通資本』2000年、岩波書店、4頁)。

この文中でいう「分権的市場経済制度」というのは先ほど解説した、価格を通じての競争メカニズムを指している。また「実質的所得分配が安定的になる」という意味は少し説明が必要だろう。

例えば現行憲法では、最低で文化的な生活が保障されれている「プログラム条項」がある。このような基本的な生活権をどのように政策的に担保するのかを、所得分配(つまり足りてる人から足りてない人たちへの分配の問題)としてとらえた。

例えば、最近では生活保護問題をめぐって、不正受給や在日外国人の受給などをことさらに過大視して、ヘイトスピーチを繰り広げる人たちが多い。または、生活保護の水際作戦(つまり生活保護の申請段階の引き締め)の問題もいまだに根深い社会問題である。いま日本のナショナルミニマムを事実上ひきうけている生活保護制度をめぐる問題は多肢にわたる。特にあまりに行政の裁量がひどすぎる、つまり生活保護の受給対象になるのに事実上受ける手前で却下されていることを重要視している人たちには、旧来の生活保護をやめてベーシックインカム基本所得)政策を主張する人も多い。ベーシックインカムだと行政の裁量による門前払いはなくなる。また生活保護をうける際の心理的な思いとどまりやうしろめたさ(スティグマ)もなくなる。さらには、現行の生活保護制度は、就業するインセンティブを阻害する仕組みになっている。例えば、働いて得た所得の分だけ生活保護が減額される「働き損」問題が深刻である。ベーシックインカムはこれらの問題をクリアできるという論者は多い。

ところが宇沢は、このベーシックインカムにはきわめて批判的であった。むしろこのベーシックインカムを批判する中から彼の社会的共通資本の考え方が生まれてきている。例えば、ベーシックインカムによって毎月、6万円ほどの定額をすべての国民が支給されているとする。これは高所得者層から累進所得税によって調達される。宇沢によれば、ベーシックインカムによって購入される財やサービスは、専門用語でいうと「需要の価格弾力性が低い」ものだという。これは、水、パン、お米などの生活必需品は価格があまり変動してもその購買量は変化しない、ということをイメージするとわかりやすい。そのためベーシックインカムでこれらの財の需要スケジュールが変化すると、大きく価格上昇に反映してしまう。宇沢は六万円で生活していた人は翌月、同じものを消費するためには6万円以上の支出が必要になるだろうという。それに対応するためにベーシックインカムを引き上げるとさらに価格は上昇していく。この生活必需品のスパイラル的上昇が、宇沢には「実質的所得分配」の「不安定性」の根源にみえた(宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波書店1974年参照)。

宇沢は、さきほどの自然資本、制度資本、社会資本といった「社会的共通資本」を価格メカニズムの世界と切り離し、政府が安定的に供給すること、それが先のベーシックインカムの不安定性を除去すると考えた。つまり六万円の定額のまま、他の医療、教育、きれいな水、最低限の消費に対応する農産物に代表される食糧の供給などが安定的に供給されることで、人々の消費動機が抑制されると考えたのだろう。これが宇沢のいった社会的共通資本のもつ「実質的所得分配が安定になる」の意味である。

そしてこのような社会的共通資本は、官僚のコントロールではなく、専門家集団を中心とする市民的な取り組みで指導していくという。この専門家集団への委託も、宇沢にあってはただの絵空事ではなかったろう。彼は利害関係者すべてに対して次のような姿勢でのぞむと言っている。

「むかし、あるところに一人のラビ(ユダヤ教の教師)がいた。Aという人が相談にきたところ、ラビはお前のいうことはもっともだといった。つぎに、Aと争っているBという人がやってきたが、ラビはBに対してもお前のいうことはもっともだといったわけである。この経緯を傍で聞いていたラビの奥さんはいった。あなたはAに対しても、Bに対してもお前のいうことはもっともだといった。ところが、AとBとは争っているわけで、あなたのいうことはまったくおかしい。そこでラビは奥さんに向かっていった。お前のいうことはもっともだ」(『「成田」とは何か』<宇沢弘文岩波新書>より)。

社会的な分断をはらむ問題には、このような心構えと、対立した意見を聞く場の再構築が求められるだろう。