居神浩「ノンエリート大学生に伝えるべきこと──「マージナル大学」の社会的意義」

 ようやくネットで全文が読めるようになったのでご紹介。問題意識は僕もまったく共有する。ここで居神氏のいう「マージナル大学」とは、僕の『偏差値40から良い会社に入る方法』でいえば「非就職コア層」が多く所属する私立大学を多く指す概念である。「層」で見るか、「大学」でみるかの違いはある。

 「マージナル大学」といっても多様性があることは著者も十分に指摘している。この論説では特に以下の諸点が注目されている。

大学が受験者の選抜機能を維持していた時代には,認識の発達(それは例えば受験学力に置き換えることも可能であろう)の点におても,関係の発達(これは最近流行の「コミュニケーション能力」に近似されるか)の点においても,同一集団のなかの平均以上の層のみから学生を入学させることができた。ところが選抜機能が弱まるにつれ,しだいに両者の発達が平均的な層を取り込み,選抜機能がほとんど失われてしまったところでは,平均以下の層まで吸収することになる。ここで急いで断っておくが,「マージナル大学」が平均以下の層のみを吸収したということではない。従来からの伝統的な大学生も少数に含みつつ,平均かさらには平均以下の発達レベルにある学生までも分厚い層で抱え込んでいるというのが実態である。「マージナル大学」の多様性というのは,この平均以下の層も取り込んでいるという実態にまで目を向けておかないと,十分に把握しきれないのではないかというのが日々の実感である。特にこの層になると,通常の精神医学的には何らかのdisorder と診断せざるを得ない例もあるのだが,ここでは滝川(2004)の見解にならい,正常・異常の2 分法をとらず,認識・関係両者の発達のゆるやかな連続性のなかの「おくれ」と把握しておきたい。しかし,それは社会生活上の自立という課題において,相当深刻なおくれであることも同時に指摘しておかねばならない。

 この論文における「認識のおくれ」、「関係のおくれ」は、具体例として前者では中学教育レベルの知識の未取得、後者ではコンビニのアルバイトも満足にこなせない可能性としてあげられている。実際にこのような認識・関係の「おくれ」に直面している学生は一定数いるだろう。この点は『偏差値40』でも指摘している点でもあり、僕もどうにかしないといけないと思ってはいる。

 ところが正直、「マージナル大学」の在り方は一種の欺瞞的側面も持っている。個々の教員の善意ややる気などとは無縁にである。その欺瞞的な側面とは何であろうか。居神氏は次のように指摘する。

 「市場の時代」における大学は(ここでは日本の大学の学校数においても在学者数においても4 分の3 以上の割合を占める私立大学を前提とする),規模の大小を問わずほとんど例外なく経営の拡大に走り,入試科目数の削減や推薦入試の広範な導入によって,中高生の学習への動機づけを著しく損なってきた。偏差値上位校の入学者の学力レベルにはそれほど大きな低下は見られないかもしれないが,中位から下位校になればなるほど,その影響は壊滅的であると言って過言ではない。まったく受験勉強をせずとも,大学への進学を決定づけるのは,もはや授業料や入学金等の初年度納付金を納めるだけの家庭の経済力があるかどうかだけである。このようにて,消費者としての学習者は大学入学後も生き続けることになる。その結果,下位校になればなるほど,大学はいわば「マッチポンプ」の役割を演じざるをえなくなる。もっともそれは,あらかじめポンプで学習動機という火を消しておいて,入学させてから必死にマッチで火をつけようとしているという意味で「逆マッチポンプ」という相当滑稽な役割であるのだが。しかしまたここで急いで断っておく
が,常識的には入試システムの「正常化」(例えば全入試区分において主要3〜4 科目型入試の導入など)を図るのが真っ当な方策であると批判されるだろうが,下位校が単独でそれを行っても市場からの淘汰を加速させるのみである。その分はより上位の大学に吸収されるのだろうが,基本的な学習への動機づけという課題は解決されないまま残る。

 しかし居神氏は、この「マージナル大学」の、僕の形容でいえば欺瞞的な「選抜」の在り方、大学の「逆マッチポンプ」的あり方を前提にしてさえもなお次のような大学教員の取り組みを支持する。

 「マージナル大学」の教員は(とても難しいことなのだが)研究者としての実存にこだわることなく,学生の「分からなさ」にとことんまで付き合うべきであろう。学生は教員が想像している以上に「分かっていない」。小学校,中学校,そして高校まで,その「分からなさ」が放置されていたとするならば,大学で何とかしなければならない。 

 この主張には賛成する。もちろんこの賛成は非常な教員側のくるしさ、しんどさを伴うものである。いずれにせよ、学生の「わからなさ」といってもここにも多様性が存在する。例えば外国人留学生でも漢字圏の学生と非漢字圏の学生では、初期における条件を等しくしてもその日本語取得のスピードには驚くほどの相違がある(これは現場で実感しないと伝わらないほどのものだ)。その相違はしばしば「絶望」さえももたらす。このしんどさに耐えることのできる教員はどのくらいいるだろうか? 耐えることのできない教員を責めることができるだろうか? 

 いずれにせよ、これは一種の「臨床」経験がものをいう世界である。医学の世界でも「臨床」経験が後続の医者に伝わることがある程度可能なように、教育者もできるだけ自らの「臨床」経験を後続に残しておく必要がある。

 居神氏の論文はまだ多様な論点を含むのでぜひ読まれることをすすめたい。

リンク先

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2010/09/pdf/027-038.pdf

偏差値40から良い会社に入る方法

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