上田辰之助・岩井克人の井原西鶴論

 上田辰之助の傑作エッセイ集に『経済人の西・東』というものがある

 このエッセイ集の中には、「日本資本主義の精神」とでもいうべきもののヒントがいくつも隠されている。「『日本永代蔵』と『イギリス商人大鑑』」や「西鶴の「経済人」像」などはその代表的なものであろう。本来は英文のものを弟子たちが日本語訳して再構成したものである。

 ここで上田は井原西鶴と同時代人といえるダニエル・デフォの商人像やマンドヴィルら思想、さらにはラテン語の伝統にまで遡る形で、井原西鶴における「商人」像を検討している。

 西鶴にとって商人の経済活動を追うことは、「富への道」を追求することであり、またそれは「一家のための富と繁栄」を追及するためのものである。デフォは同じく富への道を追求しているが、デフォウが一個人の金銭的成功とさらにそれに立脚した上での国家経済の繁栄までも射程に入れていたのに対して、西鶴の商人道はあくまでも一家の繁栄という制限を伴うものであった。そのため家産のやりくりのために主婦たちの位置が非常に戦略的な重要性を持っている。

 西鶴の推奨する経済的道徳は「才覚」と「始末」である。上田はこれをマンドヴィルのいうindustryと同じものとして解釈している。それは「獲得への渇望と共に環境を改善せんとする飽くなき欲望」を意味する*1。その意味でdiligenceとは異なる(しかし西鶴も勤勉を重視している)。また「始末」とはアダムスミスが推奨したような「節約parsimony」を意味する、と上田は指摘している。「始末」によって「命の親」ともいうべき「金銀を溜むべし」という。

 また「才覚」と「始末」は商業上の正直さ(借りたお金は利子をつけてきちんと返済すること)をめぐる問題でも重視されている。慣習に反しない程度であれば黙認されるが(例えば借金返済を慣習の許す範囲で待ってもらうなど)、歴然とした詐欺行為に利用されたときは厳しく批判されるべきだ、と西鶴は考えていたという。破産はこのとき最も回避すべき正直問題のひとつともいえた。正直な商人は莫大な債務を返済しないまま破産してはいけないのである。

 「才覚」と「始末」を行動原理としてもった商人にもさまざまなレベルが存在する。「大商人の心」「商人心」の最も素晴らしいのは大商人の「大腹中」というべきもので、それは「このふたつ物賭けずしては一生替ることなし」という、市場判断を踏まえたうえでのリスキーな投資への「賭け」を行うことであった。また「旦那」として多くの使用人を抱えれば抱えるほど「大商人の心」をみたすものとして尊敬されてもいる。

 さて上田は、西鶴の他の作品にも目配りをしたうえで、なぜ花魁や遊郭が町人文学の本質的要素になったか、という問いを提起している。それは階級差別が存在し、いくら富を蓄積しても武士階級そのものを入手することができないでは、自然とその消費が武士と対等になりうる享楽財の支出に向けられた、としている。これは面白い指摘だと思う。

 ところで井原西鶴の経済人像を扱ったほかに興味深いものとしては岩井克人の「西鶴の大晦日」という論文がある。これは『二十一世紀の資本主義論』に収録されている名品である。ここで岩井は貨幣の論理(実態と離れる形で無限の名目価値を増殖していく、それ自体がバブルな存在としての貨幣)を体現したものとして西鶴の小説を読み解いている。そこでは無限の貨幣価値の増殖を追求する金貸しが出てくる。この金貸しは岩井は書いていないが、上田のいっている意味での「才覚」(意表をつく資金調達法の考案)、「始末」(金銭の増殖を目的とすること)を備えながらも、きちんと正直の道も守る(借りたお金は利子をつけてきちんと返済)という商人像そのものが、岩井の論文でも描かれている。

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

*1:上田はこのindustryをラテン語のindustriaに由来し、そのときから単なる勤勉よりもずっと動的な意味がある、と指摘している