『atプラス 01』創刊号

 編集の落合さんから頂く。どうもおありがとうございます。アマゾンでは8月4日発表ですので、まだこれからですよね。落合さんからいただいたプレスリリースの情報を以下にコピペしますのでご参考いただければ幸いです。

◆『atプラス』新創刊について
2009年8月5日、太田出版より「思想と活動」をテーマにした雑誌『atプラス』が新創刊されます。『atプラス』の前身『at』はこれまで、90年代に急速にすすんだグローバル化する世界のなかで、もうひとつの回路(オルタナティヴ)を求めて、フェアトレード、農業、ケアなどの分野で、具体的な活動・実践レポート、フィールドワークを中心に特集を組んできました。新創刊する『atプラス』は、その多様な人びとの協同からなる「活動」の視点を受け継ぎ、さらに「活動」の指針になりうるための原理的思考と歴史性を踏まえた「思想」をつけ加えました。
たとえば新創刊号の特集「資本主義の限界と経済学の限界」では、岩井克人氏には資本主義の原理的考察から明らかになる「資本主義の不都合な真実」とその不都合を乗り越えるための「倫理」を、水野和夫氏には13世紀以降の金利の変遷から現代が歴史の転換点であるという指摘を、稲葉振一郎氏と権丈善一氏には経済学と経済学者の限界と可能性を、湯浅誠氏と白石嘉治氏には“市場”論理に対抗する市民社会を作り出す活動のあり方を書いていただきました。
今後とも皮相的な分析とは一線を画した「モノゴトを根本的にとらえなおす」ことを基本に若い書き手を加え活発に問題提起をおこなっていきます。よろしくお願いします。

atプラス 01

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 さてこの号はとても興味深い論説が多いのだが、紹介もかねて岩井克人氏の巻頭インタビューについての感想を書いておこう。すべての内容をフォローするものではまったくなく、あくまでも僕の感想であり、実物を読まれてみなさんはそれぞれの意見をもたれたほうがいいでしょう。例えば竹森俊平さんの『資本主義は嫌いですか?』などと比較してみるのもいいのではないか? あるいは猪木武徳先生の『自由と秩序』の巻頭の福沢諭吉についての論文とかとも興味深い比較ができるだろう。

 岩井は、資本主義の二面性を指摘するーー効率をまして純粋化すると資本主義自体が不安定化する。金融の高度化、グローバル化などはこの種の効率化と不安定化の二面性をもたらす好例。→これは資本主義がもつ「不都合な真実」。

 だから今回の世界同時危機は、サブプライム・ローンにかかわった人たちが強欲であるとか非合理であるとかが問題なのではない。なぜなら強欲や非合理に危機の真因を求める態度の背景には、純粋性への信奉(これらの余計なものがなければ資本主義が純粋化され機能するという信奉)があるからである。

 岩井はこの資本主義の二面性を、貨幣の動きー貨幣が単なる交換手段ではなく、貨幣自体を所有する欲望を促すという側面が、資本主義経済を不安定化させる真因であると指摘。アリストテレスが貨幣への無限の欲望が共同体やその正義を不安定化させたというのと基本的には類似の指摘。

 アリストテレスは共同体の統一性を貨幣は不安定性とともにもたらすとも考えている。岩井の場合は貨幣は人間の生活の自由をもたらすもの、と同時にそれを脅かす危機でもある。これは上にいった資本主義の効率化(純粋化)と不安定性を貨幣側から言い換えたものでもある。

 岩井はバーナンキフリードマン主義的であったが、危機が発生し、自らの意見を修正し、国家の金融機関などへの介入をすすめた、としている。これは簡単にいうと岩井のバーナンキへの無知によるだろう。むしろバーナンキフリードマンの90歳パーティーで自分の書いた論文ではむしろ後景かあるいは批判的だったマネタリーな要因の重要性を認めたことが当時は注目すべきことだった。それはいいかえると貨幣的な現象には中央銀行の役割が決定的であることをフリードマンバーナンキが共通して抱懐した瞬間でもあったろう(あたりまえのことだが)。バーナンキにミスがあるとしたらそれは住宅市場の崩壊が実体経済に深刻な影響を及ぼすと十分に「予見」できなかった点にある(と一応書いておく。実際にそれがミスなのか僕にはわからない)。むしろその後のFRBと政府の協調的な介入は、従来からのバーナンキの主張、例えばノン・マネタリーな問題=信用経路の不調整を介入して正す、あるいは中央銀行のバランスシートによる金融緩和など、ほとんど研究者時代の主張をそのまま適用しているといえる。岩井ほどの勉強家がそれを知らないはずもなく、岩井の評価が高い『現代の経済理論」所収論文の最後がバーナンキの盟友のウッドフォード論文の援用で終わっているだけに奇異な感じすら与える。

 岩井は今回の恐慌が継続し、ドルが暴落し、それがハイパーインフレーションを招くことを警戒している。その簡単な解決策はない、という。最後はちょっと僕にはわからないが、夏目漱石の『道草』を援用して、西欧=普遍と日本=特殊、その中での日本的な会社の話とかへの接続とか、いきなり文明論的物言いが始まり終わるという感じになっている。

 実は僕は岩井氏の『不均衡動学』やこの論述のベースにあるクヌート・ヴィクセルの岩井解釈にはとても興味を抱いている(その一端は拙著『経済政策を歴史に学ぶ』参照)。基本的な資本主義への認識も、経済思想史的には日本の流れの中でも理解しやすいものである。日本の偉大な経済学者の多くがこの資本主義の二面性の問題に取り組んできた、といってもいいだろう。福沢諭吉、田口卯吉、福田徳三、赤松要など戦前からその流れはある。しかし、二面性という大問題の前の小問題こそ実は経済の要諦ではないか、という気もするのだが、どうだろうか?

 ところで福沢と夏目がやはり僕の中ではこの岩井論文や猪木先生の論文を読むことで重なってみえてきた。そこらへんの論点をいつか触れてみたい。