岩井克人先生が朝日新聞のインタビューに答えて、ビットコインはなぜ現状、「貨幣」になれていないのか、また分散型「貨幣」が長期的には滅亡する予測についてもコメントしている。
「ビットコイン、貨幣になっても必ず…」 岩井克人さん
https://www.asahi.com/articles/ASKDT7T61KDTUPQJ00C.html
大変に面白く刺激的なものである。岩井先生の「貨幣の自己循環論」というものがあって、これは「貨幣は貨幣ゆえに貨幣である」という貨幣の本質を指し示すものである。中央銀行や国家はこの人々の自己循環論的認識を支えるためのひとつの制度=装置にしかすぎない。本質は人々のこの自己循環論法的認識に依存する。
現代的な議論としては、「貨幣は記憶である」としたコチャラコータの論文がある。コチャラコータ論文については、小島寛之氏が明瞭な解説を下記に掲示した『現代思想』の中の論文で書いている。
schoo番組の中で、貨幣の自己循環論法の説明と、またビットコインの現状での「市場の失敗」的な説明をしたことがある。
貨幣の自己循環論法の解説については以下に文字化されている。
▼ビットコインって、今後どうなるんですか? 経済学者の田中先生に、 “お金”と”経済”の気になるコトぜんぶ聞いてみた
https://pencil.schoo.jp/posts/Jlq1nbR6
さらにビットコインの「市場の失敗」は、以下の動画が無料公開されているので参照されたい。
ビットコインと中国バブルの経済学入門ー話題の〇〇で理解する、わかりやすい経済のはなし
https://schoo.jp/class/4259
僕のビットコインの「「市場の失敗」は、まずビットコインの量的な制約、さらに「資産」としての側面が強すぎることで価値の大きな変動が生じてしまい、貨幣としての支払い手段の機能をうまく果たせない、ことに求めている。これは岩井先生の分析と同じである。
さらにこのビットコインの大きな価値の変動は、市場の構造が特定の嗜好をもった人たち「しかいない」ことでもたらされていると僕は考えている。例えば取引高が何兆、何千億であっても、また取引する人たちが何万、何十万といたとしても、マクロ的には特定の目的=好みを持ったごく数名の人たちからなる市場と同じといえる。例えば極端には全員が支払い手段としてではなく単なる投機的な資産運用としているケースである。貨幣にある支払い手段、価値の保蔵機能よりも投機的な目的で保有し、しかも短期での成果を重視するスタンスを採用する人たち「しかいない」。
ついでにいえば機関投資家はあまり市場にはいない(保有者の国籍はあまり大きな意味はないが、おまけでいえば日本に偏在しているようだ)。個人投資家が中心のようである。
このような特定の「方向性」をもつ人たち「だけ」からなり、事実上少数だけが参加しているのと同じ市場は、その人たちの参入・退出によって財の価値が大きく変動しやすくなる。一種の「薄商いの市場」といえる。
資産としてはこの価値の大きな変動が魅力となってより多くの投機家を招いているのが現状である。そのことがさらにビットコインの「コイン」ではなく、ビットコインの「投機的資産」の面だけを強めていくだろう。ビットコインは現状では、ビット「資産」なのである。
つまり現状のビットコインは、「投機ゆえに投機が生じる」という投機の自己循環論法が成立している。これはまさにバブルである。
なおスクーの番組では、仮想通貨の分散型の短命な側面、そして中央銀行などの生み出す仮想通貨がうまく設計されていればそちらの方が分散型よりも強力であること、そして政府はより効率的に金融政策や再分配政策をしやすくなることを説いている。もちろん岩井先生のように監視社会的コストは生じるかもしれない。