150年進歩なし?

id:ITOKさんのmixi日記より

404 Blog Not Found:こら!たまには実証しろ!!
<私が平気で無知をさらしているのは、私より「やってる」経済学者がまず見当たらないということもあります。その経済学の理論を元に、たいして稼いでない私より稼いだ経済学者ってどれくらいいらっしゃいます?あ、言っちゃった。>
 http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51200410.html

すこし前のエントリーで話題になったみたいだけどid:kmori58さんの隠れ(笑)エントリーが気になってて、、これのことかと納得。

 この書き込みから経済学と稼ぐことを等値するな、というのは簡単で、また事実そうなんだけど、ただこの種の経済学=利殖の学問 とみる見方は、かなり古くからある偏見。

 どのくらい古くからあるかというと幕末もしくは明治の初めから死滅することなくずっと続いている偏見。例えば、いま手元にある住谷悦治の『日本経済学史』(ミネルヴァ書房)には、「致富の術としての経済学ー経済学は金儲けの学問である。商人たちの致富の指南書である、という通俗的な思想は、明治・大正時代に一貫してきた根強い考え方であっつた。甚だしきは、大正初期に東京帝国大学に経済学部が独立したころ、経済学をば、金儲けの方法を教える学問であると誤認して経済学部を選び入学した秀才学生のあった事実を記憶すべきである」と書いてある。

 例えば明治8年にブラウン某の『致富所論訳解』が日本で出版されてて、そこでは経済学の知識を応用してお金持ちになる方法がかかれている。ここが重要で、経済学の知識そのものがお金儲けに直接に結びつくわけだとは、このブラウン某も思っていないわけである。むしろコツは、経済学の知識をつかえばお金もちになれるかもしれない、ことを教示したことにあった。

 またこういう例もある。福澤諭吉に影響を与えたとされるアメリカの経済学者にウェーランドという人がいるけれども、明治5年に出された訳書『世渡りの杖ー一名経済便蒙ー』では、イギリス古典派経済学の紹介を、経済学としてではなく「換骨奪胎」して、やはり金儲けに役立つという趣旨で訳述がなされていた。個人の致富と立身出世の実現と、そういう明治はじめの庶民の欲望を体現していたようだ。

 なにがいいたいかというと、日本での経済学の伝播の中で、経済の法則把握という純粋科学としての意味と同時に、ある意味ではそれよりも通俗的にははるかに力強い形で、経済学が金儲けの学問であるという偏見が広まっていた可能性がある。そして「経済学」というものの社会的認知に、本来は不適切なんだが、この金儲けの学問というイメージがかなり大きく貢献していたように思える。

 しかもこれは皮肉な現象なんだが、たぶん経済学が「金儲け」=メシの種になる、という偏見とまったく無縁であると、社会全体が認知してしまえば、おそらく経済学は今日ほど日本社会で必要とされないかもしれない。ここにこの偏見との長い腐れ縁の由来があるんじゃないだろうか。

 もちろん僕は経済社会を理解するそのこと自体がもたらす快楽の大きさで判断するべきだと思うんだけど、まあ、金儲け=経済学派の人にはそういうのはあまり理解できないのかもしれない。なお、余談だが、竹中平蔵氏の批判的評伝を将来書くとある人に約束した身でいわせてもらえば(出版社未定w) 笑 竹中氏はよばれてホイホイ政治に関わったわけではなく、若いころからの明白な政策企業家の野心があったことは結構有名な話じゃないだろうか?