奇妙な連帯?

 世界各国は明白な需要不足の状況にあって、それに対処するのは、金融政策、財政政策、そのあわせ技といったものを割り当てるのが正しい状況がある。だから総需要喚起政策を支持する動きが言論の場ででてきてもおかしくないのは理解できる。

 ところが、最近の日本における、クルーグマンはインタゲ放棄したとか、「謝罪」したとか、前者はただのウソ、後者は第三者に誤解を与えるもの、という日本の(ネット中心だけどね)言論の風景がある。

 このクルーグマンの「謝罪」だとか「インタゲ放棄」だとか喜ぶ人たちは、ちょっとみてみると、三つの類型にわかれている。最初はただ単にネタとして無邪気に喜んだりする人たち。これはまあ、かなり多いだろうけど、精神病理学社会心理学の対象なので考察しない 笑。あとのふたつは興味深い。


 ひとつは、たとえばマンキューの短期の総需要・総供給の動学モデルを紹介しながら、なぜか総需要不足の対応を強調せずに、そのマンキューの章の中心的な話題ではない潜在(自然)成長率の下方屈折を強調し、その対応を求めている人。

 冒頭にも書いたように、いまは総需要不足なはず。そしてマンキューのその動学モデルの章の中心テーマである総需要不足の動学やその対応に注目するならば理解できるが、なぜかほとんど書いてもない構造改革を強調している人、もしくはそれに賛成する人たちがいる。

 基本的にマンキューやクルーグマンを、彼らとは異なる主張(つまり総需要不足ではないと認識している)を喧伝する手段にしている。すごく不思議というか奇怪な風景。

 潜在(自然)成長率が下方屈折しているのが原因で、総需要喚起政策ではなく、構造改革を割当よ、とマンキューがいい、クルーグマンが「謝罪」や「インタゲを放棄」してまでいっているのだろうか? バカげた話である。しかしそのバカげた話を本にしたり、ネットで広めているのが日本の風景。

 もうひとつは、クルーグマンの「謝罪」を「市場原理主義」の敗北とか転向とか都合よく理解している人たち。そもそもせいぜいクルーグマンは、アメリカも日本と同じようにバカでしたすみません、としかいってないのに、どこに市場原理主義の敗北がでてきているのか不思議だし、クルーグマンはそもそも(日本流にいうと)ブッシュ政権市場原理主義 の批判の急先鋒だったはず。もし「謝罪」したら、市場原理主義の敗北をみとめてるんじゃなくて、逆になるんだけど? 笑。

この両グループ(いまの不況は構造問題でおきたと考える人たちと、いまの不況は市場原理主義のせいだと考える人たち)が、本来はどうみても違うのに、なぜかクルーグマン批判(ほーら、クルーグマンは間違えて態度をかえた、というレベル)で暗黙の連帯を行っている。実に奇妙な風景に思えるんだけどね。