ボツ原稿版・経済論戦その1


 途中でえいや!と自ら清水の舞台から飛び降り(高さ12m,平均生存率5%程度)企画変更したので使わなくなった原稿を何回かにわけて投稿。


はじめに サブプライム問題以降をめぐる経済論戦

1 変貌したエコノミストたちとウェブ革命

 90年代から続く「失われた15年」が一時期の眠りから再び覚醒し、日本経済は再び視界不良なデットゾーンへ突入していこうとしている。この視界不良は直接には米国のサブプライム問題に端を発する世界同時不況への危機感が引き起こしたものだといわれている。メディアなどで危機感が煽られるほど、経済学者やエコノミストそして政策当事者たちの間で経済論議が過熱していくのはすでにお馴染みの日常の光景であろう。その意味では19世紀の思想家エドモンド・バークが命名した「経済学者の時代」ほど、今日の日本社会を的確に表す言葉はないであろう。

 ここでは日本の経済問題に関する様々な発言を、時代的には21世紀(2001年以降)に入ってから今日まで、そしてテーマ的にはマクロ経済的な話題(景気、経済成長、失業、経済格差など)に絞って、日本の経済学者やエコノミストたちの代表的な発言を整理していこう。

 例えば2003年に『エコノミストミシュラン』(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編著、太田出版)という書籍を出版した。この本は同時期に前後して出された経済学者・エコノミスト批判本(原田泰『奇妙な経済学を語る人々』(2003年、日本経済新聞社)、東谷暁エコノミストたちは信用できるか』(2003年、文春新書))の中でも、最も過激なものとして知られた(と思う)。著者も共編著者のひとりとしてこの書籍に携わったことは、いまでも鮮烈な記憶として残っているし、2003年時点ではそれなりのエコノミストたちの論戦を展望できたという達成感もあった。

だが、それから5年以上が経過して、構造改革路線の破綻が鮮明になり、経済格差拡大への懸念、人口減少の開始、サブプライム危機などをうけて、経済論壇の様相もほぼ一変した。第一線で発言しているエコノミストや経済学者たちの顔ぶれも大きく様変わりした。ここではこの機会にこの一新した経済論壇の中心人物たちの簡単な見取り図を提供することを狙っている。日本のエコノミストたちの発言が本当に今日の経済問題の理解に役立つのか、それを(ブログ)読者とともに考えていくための素材を提供したい。

 また21世紀になって目覚ましく進展したウェブ革命の動向を、経済学者やエコノミストたちの新たな活躍の場として重視している。旧来のメディア(テレビ、新聞、雑誌媒体、書籍など)、そして掲示板・メールマガジンといったウェブ1.0から、今日の花形であるウェブ2.0(ブログを中心とする双方向メディア)におけるエコノミストたちの発言を時系列的に取り上げてみた。このようなメディアに注目したエコノミスト分析というのはいままで十分に行われてこなかっただけに重要であろう。


 例えば今回とりあげていくが、米国の経済論壇ではすでに旧来のメディア中心から、経済学者個人の運営するブログでの発言を核にしたコミュニティ(ブログ界ともいう)が育っている。ブログ界では、日々、政策分析や経済問題に、ノーベル経済学賞級のエコノミストや新進気鋭の学者たちが積極的に発言を行っている。このような動向は専門家だけではなく、経済問題に関心のある人々の理解に著しく役立つものであろう。ここでも日本だけではなく、米国のブログ界の最新動向にも注意を払いたい。


 ところでサブプライム問題前後の日本における経済論戦で、主要な役割を果たしている三つの視点に特に注意を払ってみたい。その三つとは図表1に描いたように、1)構造問題主義、2)反経済学、3)清算主義 の3つの立場である。これらの3つの視点は、さまざまなエコノミストたちの発言の中で表明されているものである。

 構造問題主義とは以下のように立場である。例えばワーキングプアネットカフェ難民などの増加に代表される経済格差や貧困の問題は、「IT革命やグローバル化」がもたらしたものである。あるいは日本の90年代から今日まで続く停滞もそのような「IT革命やグローバル化」がもたらした構造的変化による、などという見解に代表される。この構造問題主義の立場に立つ人たちは、ともに問題の解決として構造変化に対応した処方箋を提起するのだが、その処方箋が依って立つ価値判断も多様であり、問題は同じでも解決策ではまったく対立するものが提起されている。一例をあげれば、「IT革命やグローバル化」は必然的なものなのだから、これに適応するように規制緩和や政府機関の民営化などで構造改革を推し進めることが、日本の停滞を解決すると考える人たちがいる。その一方で構造改革こそ「IT革命やグローバル化」の負の側面である経済格差や貧困をさらに悪化させるものである、として批判し、社会的弱者へのセーフティネットの拡充を推進する人たちもいる。本書ではこれらの二極化している構造問題主義の主張を整理するとともに、両者が日本の経済問題を捉える上で適切ではない理由をも論じる予定である。


 二番目の「反経済学」はさらに多様性を増す。経済学に「反」=アンチの文字がついているように、反経済学の想定するなんらかの「経済学」の基本原理とは反対の命題を掲げて、「経済学」の限界や現実問題の解決にあたっての無策ぶりを指摘する態度である。この「経済学」をまま「市場原理主義」と置き換えて批判することもこの立場の人たちの何人かが採用している立場でもある。もちろん反経済学の定義から、このような「経済学」が何を指すのか明らかでないといけない。ただ本書で論じる多くの反経済学的思考では、彼らの意味する「経済学」が何なのか不明であることが多い。後ほど「経済学」や「市場原理主義」として、これらの論者が想定しているであろういくつかの要素を解説する。その上で反経済学的思考の特徴を、図表1に書いてある4つの認知バイアス(モノを歪んで考える傾向)とともに簡単に解説しておく。


 最後の清算主義はあまり一般には聞かない言葉かもしれない。この清算主義を簡単にいうと、経済の成長や発展は資源を無駄に利用しないことによってもたらされる(これを効率的利用と経済学者は表現する)。そのために社会に非効率的な資源の利用があればそれを除去しなくてはいけない。ただしそれには政府の介入は必要なく(たいていは政府の介入は効率的利用の促進をかえって妨害する)、市場の淘汰の力で行うべきである、という立場である。経済学の歴史では、第二次世界大戦前の経済学者の多くがそのような清算主義の立場であった。ただアメリカの大恐慌期にこれらの清算主義者の多くは壊滅的ダメージをうけて沈黙したか、あるいは別な方面(戦時経済体制の構築など)に逃げ込んだ。大不況で失業や企業の倒産が相次いでも、清算主義者はそれを非効率的資源(無駄な人員や経営のいいかげんな企業など)の淘汰であり、必要悪とみなしていた。これに対してジョン・メイナード・ケインズらが提唱した政府介入策や、超金融緩和政策を主張した一群の経済学者たちが、政策の面でも理論の面でも「勝利」し、清算主義者たちは当面は「淘汰」された、というのがいままでの大雑把な経済思想史の流れである。しかし今日の日本ではこの古き清算主義がさまざまな新しいデザインをまとって復活している。


 サブプライム問題前後から影響力を持っている以上の3つの視点は、厳密に分離できるものではない。たがいに他と関連している場合もあれば、まったく独立して主張されたりもしている。例えば、清算主義的な思考それ自体は反経済学ではなく、古い経済学の立場であり、反経済学思想とは一線を画す場合も多い。その一方で、反経済学的思想が清算主義的な立場や構造問題主義に立脚することもある。また清算主義が構造問題主義と密接な関連にある場合も多い。


 とりあえずこの3つの視点の多様性を検証するのは第1章以下の各論にまかせて、「はじめに」ではこれらの視点の性格をおおざっぱに知る見取り図を提供しておこう。

 (以下続く)