片岡剛士さんの『日本の「失われた20年」』が届いた。下村治とケインズの経済学、さらに辻村江太郎の遺伝子を受け継いだ重厚な著作になっている印象。値段が高いのでネット住民の傾向(本読まず、他人の紹介で論じる安易な傾向とは真逆なのもいい。本物の智識を手に入れるにはお金も手間もかかる*1。
片岡さんがこの著作の先駆形態で河上肇賞を受賞したのはまだリーマンショック以前の段階。今回出たものは骨格はほぼ同じ(骨格部分も辻村的なものを導入して補強されている)だが、直近の話題まで含めた世界金融危機の中の日本経済論として一新している。
スティグリッツの『フリー・フォール』もそうだが、世界金融危機によって、まず自国経済の不況のあり方と、さらに経済学の見直しが、片岡さんのこの本の中の大きいテーマだ。前者に関しては「なぜ日本の不況は先進国の中で最悪に属するのか」という問いに集約される。
特に日本の不況の深度と経済学のあり方の再考を、経済政策の実現過程からとらえようとしている。経済政策の実現過程は複雑だが、その骨格として3つの段階(経済情勢の把握、各種政策の実行、その発現)に注目している。冒頭の政策ラグに関する議論はしばしば無視されているので重要なまとめだ。
本文の構成は、世界金融危機の原因と今後の見通し、日本経済の現況、そして戦前から戦後、70年代、バブル、大停滞までの日本経済の変動を財政金融政策の政策形成過程に注目して論じていく。今回の世界金融危機における政策スタンスについても実証的に論じられていて面白い。
詳細はちゃんと本書を読まれることを期待したいのだが、政策論争のかゆいところが具体的なデータとともに示されていて、自分で物事を考える際の指標としても使えるだろう。ところで受賞作段階の原稿には確かなかったと記憶しているが、最終章の辻村江太郎の経済政策論の再考は個人的に特に面白い。
この辻村理論の再編成を利用して、片岡さんは世界金融危機以後の日本がとるべき社会保障政策、労働政策、そしてマクロ経済政策の総合的な位置づけを狙っている。この辻村理論は、その起源をたどればスミスやマルクス、ケインズの総合という位置にあるが、同時に日本的な文脈でも面白い。
片岡さんは慶応卒であるが、この辻村理論は慶応経済学というものがあるとしたらそのコアである。と同時に一橋大学の経済学のコアでもあるだろう。日本を代表する経済学スクールのふたつがもつ経済学の伝統(それは両スクールの源流である福田徳三に遡る)に、この片岡さんの経済学は立脚している
その意味では、日本的な経済学を今回の世界金融危機において再考し練り直していることでもあり、その精神はやはり同じく日本の制度的文脈を意識した経済学を構築した下村治の精神に近い。
ところで不肖田中もこの片岡さんの考えているような政策観を(ここだけは本書の意義を脇に於いて学者なりのおれおれ精神を発揮させていただければw)いまから30年近く前にもち、それが卒論であり、またいまもその見地で福田徳三論を書いている。この辻村的な枠組みを利用すれば雨宮健が行ったアリストテレス論も射程内だ。
雨宮健はアリストテレスの正義論をエッジワースのボックスダイヤグラムの中で整理している。実はこの発想は雨宮は指摘していないが、(特に戦前の)日本の経済学では(フォーマルな公式化はしていないが)多くの経済学者が暗黙のうちにもっていた経済思考の様式でもある。その典型が福田であった。
ということはこの片岡さんの経済政策観はさらにアリストテレスから今日までの経済学の流れの中にも位置付けることができるだろう。さて今日、経済学は単純に「市場」を理由にした極端な物言いをする学問とのみとられる一般的なドクサがある。
そのような先入観を放棄し、世界金融危機や日本の困窮というアクチュアルな問題と、アリストテレス以来の経済合理性と社会的正義との相克を、この本をヒントにして考えをすすめることができるとしたらそれは単純に気分のいい読書体験だろう。
- 作者: 片岡剛士
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2010/02/25
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 217回
- この商品を含むブログ (35件) を見る
*1:ちなみにお金の問題だけは公立図書館のサービスを使えばいいが、ネット系の人には過去このブログでも何度もそれを推奨してもほとんど無反応といっていい無関心ぶりを示されたことも何度もある。誰も聞いてないのに個人的な理由をずらずらはてブやコメント欄で書かれたことも1、2度ではない 笑 そんな個人的な事情で言い訳しなくてもいいのに、と思うのだが。だがそれでもあえていおう、お金がなければ図書館で借りるべしw それぐらいの手間をかける価値が本書にはあるだろう。ちなみに面白いので書くが、「じゃ、図書館で借りるか」といちいちネットに書く人間は絶対に借りないという法則もあるらしい。「あとで読む」が読まない人の表象であるのと同様であるw