金子勝経済学のレトリック


 昨日、古いファイルを整理してたらでてきたしろもの。学会誌以外でははじめて書いた書評(ただしメールマガジンでだけど)。まだ日本の経済論戦の俯瞰図みたいなものをつかめてなかった2001年はじめのもの。例えば金子勝氏が以下で提案する減債基金的な手法、簡単にいうと国家会計のオフバランス化と時限付き債務不履行みたいな話ではなく、それに対抗してドーマー命題に基づいてのリフレ政策による財政正常化の手法を書くべきだったがそんな気配りもできていない。ただ金子氏への批判についてはこれ以上(敵ー味方の二元論的レトリックの多用への批判)なにかいうつもりもないのも事実。メールマガジン「日本国の研究」の2001年のバックナンバーはすべて削除されているので保存のために再掲載。


■空虚な「主流経済学」批判       

金子勝著『日本再生論』
日本放送出版協会、2000年11月刊 ISBN:414001901 本体価格870円)

 時代は新しい批判のレトリックとユートピアを求めているのだろう。本書の著者金子勝氏の近年における精力的な活動をみるとき、その感が強い。本書は金子氏の従来からの主張を総括したものであり、現代日本の経済・社会が抱える政策的課題への処方箋を提供しようとした意欲作である。

 本書の特徴のひとつは、著者がいうところの「主流経済学」への批判と、それに密接に関連している「リスク無防備社会」への具体的な対処を示していることにある。従来の「主流経済学」は安易な「市場原理主義」(経済戦略会議に参加した経済学者がその典型であると著者は指摘している)を喧伝し、制度やルールの改革をいたずらに誤った方向へ導いている、と本書は痛烈に批判している。著者独特の“レトリック”によれば、「主流経済学」と「市場原理主義者」の考え方は、「冷戦型の二分法的思考」に制約されている。「冷戦型の二分法的思考」とは、「小さな政府と大きな政府」、「市場対政府」、「効率と平等のトレードオフ」等という対立図式で政策課題を考えることにほかならない、という。このような冷戦型思考では、「個々人の合理的計算能力を前提」として、市場モデル(あるいは政府介入モデル)が組み立てられているので、著者のいうところの「新しいリスク」には対応できないという。いいかたを変えれば、今日の市場・金融システムのあり方や福祉国家体制では、「個々人が合理的に計算できる能力や認知できる能力を超えている」リスクには対処できないのである。それゆえ、著者によればこの「新しいリスク」への「無防備社会」ともいえる日本の再生のために「冷戦型の二分法的思考」をこえる制度改革・ルール改革が必要とされる。以上が本書の基本にある著者の方法論と問題意識である。

 私は著者の方法論をあえて“レトリック”と名づけた。レトリックには積極的な面と否定的な面の二重の評価が可能である。まずレトリックの積極的な評価としては、著者の「主流経済学」や「市場原理主義」「冷戦型の二分法的思考」という批判対象へのレッテル貼りが、読者への「説得のレトリック」として有効に機能しているということだ。読者の支持は、本書を含めた大量の著作群が版を重ねていることからもわかるだろう。他方で批判的に見なければならないのは、著者のレトリックが実質的な意味を欠いていることである。たとえば「新しいリスク」とは合理的計算をこえる現象のことであったが、他方で著者はこのリスクを「特定化しなければならない」と説き、日本企業の責任逃れ、「グローバルスタンダード」の横行、政府の危機管理の欠点などを「新しいリスク」の源泉としている。しかしこれらのリスクは、各種のメディアなどで頻繁に報道されている事象であり、また日常的な話題にさえなっているものにすぎない。とても合理的計算を超えたリスクとはいえない。すなわち、「主流経済学」が「新しいリスク」に対処できないと声高に非難したわりには、著者の「新しいリスク」とは、「主流経済学」であっても日々問題としている類のリスクにとどまっている。すなわち、この「新しいリスク」には実質的な内容が欠ける、単なる修辞(レトリック)にすぎない。むしろ批判したい対象にレッテルを貼ることで、自説の正当性を高める手法こそまさに「冷戦型の二分法的思考」のなにものでもないのではないか。安易なレトリックに依存する敵―味方的な二分法ではなく、多様な意見の理論的・実証的議論こそ現在最も要求されていることであろう。

 本書は、またキャッシュフロー経営、金融ビッグバン、IT革命など多様な政策課題を批判的に検討している。特に財政赤字問題では、著者の独創であるという「債務管理型国家」の提案が要約されている。

「この債務管理型国家の構想は、国の金融資産・負債を会計的に分離して、直接に国債費の膨張を抑制し、期限を区切らず、有利な条件の時に累積債務を減少させていくことを目的としている」(本書146頁)

という。国の通常の予算とはバランスシートを分離する(これがなぜ「国家」という名称を伴うか不明だが)という着想は面白い。だが著者の累積債務の処理は、かならずしも経済理論的なものではない。とくに本書を読んでも「期限を区切らず、有利な条件の時」が具体的に何を意味するかは不明であり、簡単な説明を見るかぎり非現実的な提案か、または混乱した議論にしか思えない。肩書きはたいそうなものだが、中味は従来の国債管理政策や古典的な減債基金の奇妙な変型(以下)にしかすぎないのではないか。

 さらに国債の期間構成を実質的に解消しようとする提案をも含んでいて、実行可能性にも(?)マークがつくユートピア的な産物である。著者がいうように「主流経済学」を超えた制度改革とはとても思われない。先のリスク論との関係からいえば「新しいリスク」に直面しているのだから、国債の償却に「有利な条件の時」を期待するという著者の合理的? な見込みは妥当なものとはいえないだろう、と著者に代って指摘しておく。

 本書には魅力的な一面がある。著者の名文ではないが、大胆そうに見える提言や白黒のはっきりしたレトリックなどが読者をひきつける(惑わす?)その魅力の源泉である。日本の経済学の一角を占め続けている経済学批判の正統な後継者であり、今後も学生やビジネスマンなどに一定の支持をえることは間違いない。しかし書評子としては、そのような読者にも、この時代の寵児が新しい意匠(レトリック)を凝らす前に速読せよ、とアドバイスを与えたいと思う。