首都在住のポップ(死語)な地方大学教員が(迷惑省みず割って入って)お応えしましょう。


http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061122/p1 より


<山形さん:はいはい、すごいですね。でもあなたが考える程度のことはすでにとっくの昔にだれかが考えているのです。そしてその中にはその仮説をブログで開陳するだけでなくきちんと検証し、精度をあげて実際に使い勝手を増すような工夫をした人々がたくさんいるということです。そうした努力がまさに成長ということです。

そうした努力を積み重ねた結果として、お金は成長を計る完璧な尺度ではないかもしれませんが、手持ちの指標の中ではこの程度のものでも最高のものの一つとなってきたんです。>(元の出所はここhttp://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20061104


 これについて大阪さんは「そうした努力を積み重ねた結果として、お金は成長を計る完璧な尺度ではないかもしれませんが、手持ちの指標の中ではこの程度のものでも最高のものの一つとなってきたんです」のソース(発言の根拠)を示せということをおっしゃっているように邪推します。そこで以下のような発言をご紹介しておきます。いきなりGDP成長率の評価の問題だとドマクロすぎるので、ここではミクロ的にまず考えてみましょう。


 山形さんの主張は、経済厚生(≒消費者余剰概念)を貨幣的測度で図るのがいまんとこ最高のもののひとつ、ということに解釈できますんで、奥野・鈴村本(『ミクロ経済学』Ⅰ)のまた引きでスマソですが、コーデンの次の発言をば。


「公式には[消費者余剰概念]は死んだというべきものかもしれない。とはいえ、それがおとなしく墓の中にとどまろうとは思われない。この概念には強い直観的な説得力があるうえに、それに替わる道具があるわけでもないので、人々は消費者余剰の計測を続けている」(Coredm W.M.,The Theory of Protection,1971)。


 まさに「手持ちの指標の中ではこの程度のもの」でも替わるものがないんで、事実上「最高のもののひとつ」なんじゃないでしょうか?*1


 もちろん経済厚生(人々の幸福や生活の豊かさ)を測る上でほかの代替的な試みもあるのは承知しております。話を国民所得勘定レベルに戻しますと、最近、フリードマンについての論争が激しいですが、フリードマンの『資本主義と自由』を修正するため(同時にロールズの『正義論』を修正するため)に書かれたといっていいオーカンの『平等か効率か』の中には、山形さんがある方へのコメントに対して書かれた「ちなみに、「スカラー量では不十分だという仮説を立てている」という物言いから、たぶんなんかベクトル量を設定すればいいのでは、といった漠然とした思いつきをお持ちなのではないかと思いますが、そういう提案もとっくの昔にあります」に該当する著作だと思われます。


 このオーカンの著作は古本でわりと容易に入手できますので読まれるのをおすすめします。またオーカンのベクトル量的発想からのGNP批判は彼の専門論文集にもありますし、また同時期に書かれたサーベー論文書きのチャンピオンであるJ.チップマン(彼の書いたサーベー論文はすべて熟読の価値がありますが)の次の論文も同様の問題意識で書かれたものです。もちろん都留重人関連では無数にこの種の論文がありますがそれはまあいずれ。

Economics for Policymaking: Selected Essays of Arthur M. Okun

Economics for Policymaking: Selected Essays of Arthur M. Okun

Why an Increase in GNP Need Not Imply an Improvement in Potential Welfare
John S Chipman and James C Moore
Kyklos, 1976, vol. 29, issue 3, pages 391-418

(補遺)というかサミュエルソンの1950年ペーパーからこの問題は論じられていて、すでにその段階から国民所得概念が理論的に国民の経済厚生を厳密にはフォローしてないけれども、その批判を行ったサミュエルソンも含めて理論的には厳密じゃないけど国民所得概念で(いやいやだったりしぶしぶだったりしても)いくしかないでしょ、という状況になっているといえましょう。

 Paul A. Samuelson "Evaluation of Real National Income", 1950, Oxford EP


 あとスミスで「余剰」概念というとこれは例の「余剰はけ口」論の「余剰」のような経済上のスラックをしめすものとしても解釈できるので、用語の使い方ですが、ぜひ大阪さんにはそこんとこ留意していただければと。この「余剰」(特に消費者余剰だとか生産者余剰とは違う古典派的、マルクス経済学的、あるいはPK的なそれぞれの意味で)は多様な解釈を許してしまうのでスミスやマルクスを持ち出すのは慎重にいったほうがいいように思えます田。

*1:経済厚生の貨幣的尺度にかかわる理論的な注意点は奥野・鈴村本に周到に書いてありますので参考にしてください。簡単にいうと所得効果が小さいときはこの尺度でオッケイということがかかれてます。ただ最近の動向はどうなんでしょうかね。費用便益分析で興味深い議論展開になることをキボン