ケインズとハイエクの経済思想の結節点を「制度」や「慣習」に求めるという間宮氏の試みが、本書の公刊から20年近くを経て、具体的な「制度」=中間組織への期待となって姿を現している。
増補 ケインズとハイエク―“自由”の変容 (ちくま学芸文庫)
- 作者: 間宮陽介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/11
- メディア: 文庫
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旧版における議論の整理はラスカルさんのエントリーを参照されたい。ここでは主に増補版の中心である「補論」に紹介をしぼる。
最近の社会情勢の変化を間宮氏は「市場原理主義」(新自由主義)と社会主義・国家主義の二極の対立、あるいは別の表現だが「公と私の対立」という図式として単純化されてしまい、前著でのケインズとハイエクの両者の「自由主義」がもった共通する領域が抹殺されてしまった20年であると総括する*1。
特にこの共通する領域として間宮氏は社会の中間組織のさまざまな形態にハイエクもケインズもともに期待や独自性をみていたが、学校(特に間宮氏は大学を例示する)、政党、ギルド、宗教団体、家族、都市、資源の共同利用地としてのコモンズなどが、自由主義の制度的な根拠であると間宮氏はみなしている。
例えばハイエクは現代では新自由主義の代名詞のようにみなされ、さまざまな公的・半公的機関の民営化・市場化の思想的論拠として持ち出されるが、間宮氏はこのハイエクでさえも芸術・教育・学問の市場化せよ、とはいっていない、と指摘する。だが、ハイエクには同時にこれらの領域の存在自体に注意を注がないという理論構成になっているとも間宮氏は指摘する。
「ハイエクの自由論の二分法モデルはいわば「一君万民」モデルに近い。一君=国家と万民=市場が対置され、一君を縮小することに自由の保証をみるからである」(224頁)。
このハイエクの二分法モデルを補うのがケインズの視点であり、ハイエクでは市場化の対象となっていなかった領域を、「中間組織」の経済学として再生する視点がある、というのが間宮氏の解釈であると思われる。実際にケインズはイギリスにおける中間組織のさまざまな形態に注目し、その発展に彼の自由主義の発展への期待と古典的自由主義からの離別を告げていたと思われる。
「ハイエクは図式としては一君万民モデルだが、私的領域を市場の一枚岩と考えはしなかった。一方ケインズは、経済のポピュリズム化が現代経済の病弊の根元にあることをむしろ主張した。だから彼は、「貨幣欲」を掣肘するために中間団体の発展に未来を賭けようとさえしたのである」(231頁)。
間宮氏はまたハイエクの保留を無視して、この「一君万民モデル」=新自由主義がそのまま適用されれば、中間団体の領域は市場化され、その結果、人々は狭い私的領域に閉じこもってしまうだろう、という。ちなみにこの「狭い私的領域」というのは、例えば我利我利の金銭亡者がイメージされ、社会がこのイメージと実態一色に染まった状況を想像すればいいのだろう。間宮氏はここに重要なパラドクスが存在していることを見抜く。個人個人が「狭い私的領域」に閉塞していながらも、それは他方で「一君」=市場と二元対立的に屹立する国家との力の大小関係によっては、社会が「自由」であるよりも「不自由」に容易に転落する可能性があることを間宮氏は指摘する。例えば、なぜ戦前のドイツで中間層の勃興の帰結としてファシズムが誕生したのか、と間宮氏は問いただしている。そのキーは長期不況と第一次大戦後の戦時処理にある、と僕なら答えるが(旧版ではその点にも間宮氏は留意しているようには読める)、補論で間宮氏は
「中間団体の解体によって公と私は理屈のうえでは二極に分解するわけだが、ファシズムの場合には、両者は相対峙するのではなく、むしろ一元化する、すなわち癒着することになる。同業組合や労働組合は形式的には残ってもコーポラティズムの名の下に、公と私を癒着させることに存在理由を生み出すのである」(226頁)。
と述べている。ファッシズムと新自由主義が中間組織の消失という点で似ており、それは事実上、「一君万民モデル」(ハイエクの保留の抹殺を伴う)の社会への適用の別様な表現である、というのが間宮氏の主張なのであろう(なおこの点についてはアルバート・ハーシュマンの私的ー公的領域の循環モデルー『失望と参画の現象学』が間宮氏の議論を大きく補うものであろう)。。
私の中間組織の議論についての見解はここに少し書きました。書籍では『日本型サラリーマンは復活する』に書いてあります。
また「一君万民モデル」への反論についてはネット上ではここに書きました。また書籍では『経済政策を歴史に学ぶ』に書きました。
そこで書いた私の考えからいうと、大枠で間宮氏の議論には賛成します。特にハイエクの保留=市場化には適さない領域(実際にはこの表現だけでは経済学者のデフォルトからの主張を防御できないので、「市場化すべきではない領域」と価値判断としていうしかない*2)があるという指摘は重要に思われる。あ、でもマクロ経済環境への注目がこの補論では中間団体への期待に移行しているので、僕とは「大枠」では違うか。
*1:以下では、自由主義、新自由主義、古典的自由主義との違いが重要。先に整理すると自由主義は公と私的領域以外に中間団体など半公・半私的な領域の積極的意義を認めるもの、新自由主義は私的と公の二元的対立を主軸に私的領域が公的領域を市場化していくのがデフォルト、古典的自由主義とは私的領域の自律的調整に信頼を置くものでそのとき事実上政府などの公的機関の役割は無視されている、無視されているので二元的対立は新自由主義ほどクルーシャルなものではないともいえようか
*2:最もこの価値判断というか感情ベースの判断を生物学的な根拠から客観的に論じることで経済学のデフォルトから防御することは十分可能である。もっとも個々のケースで判断していかないと「すべきでない」領域が無制限に増殖してしまうリスクも相当大きい。例えば「米は日本の文化だ」とかで貿易保護や補助金の獲得を狙うケースなどは許容できないし、そもそものハイエクはそんなのは認めないわけだが。その意味でこの「中間団体」の領域は間宮氏が書いたように常に市場と国家の二元対立の抗争の場として緊張関係が存在するともいえようか