記録:ハイエクの経済学からアーキテクチャの経済学へ:太子堂正称氏との対談

いつの間にか元リンクが消えたので、以下に保存用。2011年12月26日配信

 

ハイエクの経済学からアーキテクチャの経済学へ:太子堂正称氏との対談

http://real-japan.org/2011/12/26/773/

 

 猛烈なスピードで対談を繰り広げている「ミュルダールを超えて」あっという間に10回目です。今回は年内最後の対談の掲載になります。テーマは「ハイエク」。時代はケインズの時代ともハイエクの時代ともいえるなかで、本格的なハイエク対談をお送りします。

 今回の対談をひきうけていただいた太子堂正称さんは東洋大学経済学部准教授。ハイエクやヒュームなどの経済思想史の研究を中心にしている若手の研究者ですが、同時に時論的な問題意識も強く、それは『ビジネス倫理の論じ方』(佐藤方宣編著、ナカニシヤ出版)に収録された「競争と格差」、そして今回議論の対象となったきわめてすぐれた論文「ハイエク福祉国家批判と理想的制度論」(小峯敦編著『経済思想のなかの貧困・福祉』ミネルヴァ書房)にも表れています。特に後者は、よくあるハイエクのイメージ(ビックバン的な自由主義的改革、市場原理主義者)というものとは異なる、ハイエクの福祉への理解、そして漸進主義的な態度などが強調されていて興味深いものです。このようなハイエクの歴史的にしっかりした実証分析から裏付けられた、太子堂さんのハイエク観と今回はがっぷり組み、さらにはハイエクの今日的な最重要課題であるーアーキテクチャーと自由―の問題までふたりで語り合いました。

 田中:僕が昔訳した本に『アダム・スミスの失敗』(草思社)というのがあって、その著者はケネス・ラックス。ラックスは心理カウンセラーの一方で、経済学者のマーク・ルッツという人と『ヒューマニズム経済学』という本を書いてます。ルッツもラックスもそこでガンディーを好意的に評していて、またラックスの単独の本でも同じようにガンディーの人間の価値を経済問題の中で重視しているという観点から大きく評価していました。太子堂さんが訳に参加されたダースグプタの『ガンディーの経済学』(作品社)には、このルッツのガンディー経済学への批判が書かれていて注目しました。その批判は、ルッツたちは、ガンディーは経済学の数理化を批判していると書いているが、それはガンディーの態度ではないというものでした。

 太子堂:そうですね。ガンディーの態度というのは、基本的には新古典派的な個人をベースにした経済学に倫理的な要素を導入して接合しようとしたものですから。

 田中:同意見ですね。それに数学を使おうが使わなくても、人間の価値を重視するしないに関係ないですからね。

 太子堂人文主義的な伝統には数学でのモデルを拒否する動きがありますよね。オーストリア学派にもそうした傾向はありますが、数学の使用自体は本質的な問題ではないと思います。

 田中:さらに面白いのは、ケネス・ラックスは『アダム・スミスの失敗』でガンディーの経済学をたたえた後に、インドの新興宗教に目覚めるんですよ(笑)。サイババみたいな、悟りを得てから生涯話すのをやめて「聖人」の評伝を書き、その人に帰依していく。まあ、人間の価値を過剰に重視する人文主義的な伝統の経済学には、60年代的な対抗文化の影響がありますが、このラックスやルッツたちの数学モデル嫌いとか、専門性への懐疑だとかはそこらへんの影響でしょうね。それにガンディーも対抗文化のアイコンとして利用されている。

 太子堂:数学や経済学もすべて打倒すべき制度だったんでしょうし、ガンディーのアマチュアリズムを強調し、採用しようとしていたんでしょうね。

 田中:そうそう。ところで今日はハイエクとガンディーについての比較から始めようと思っています。

 太子堂:一見、まったく異なるふたりのようですが、田中さんはふたりをどうとらえていらっしゃるんですか?

 田中:さきほどのラックスたちは「社会的必要」(ニード)ゆえに、弱者を救済することを肯定します。しかし僕も太子堂さんもガンディーはむしろ個人の観点から弱者救済含めて考察が展開されていて、社会を理由にしたものではない。ただ伝統的経済学の前提にする所有権制度には、ガンディーは批判的。

 太子堂:そうですね、富者の財産は社会的存在であって、彼らは「信託」を受けてそれを所有しているだけであり、それは自分たちだけではなく労働者や貧民たちのために利用する義務を負っている、というガンディーの「受託者制度」にはそうした所有権制度への批判があります。

 田中:で、ハイエクもガンディーと似ている。太子堂さんが書かれた論文「ハイエク福祉国家批判と理想的制度論」では、ハイエクも一種の福祉国家論者だった。ハイエクはいまいったガンディーと同じように、社会的必要から弱者の救済を考えているのではなく、あくまでも個人ベースで一定の弱者救済、生存権の認証を考えていたとあります。

 太子堂:そうですね。ハイエクは一定の再分配を認めますが、ただいまおっしゃったように社会的必要という要請からの再分配は拒否してますね。ハイエクの特徴は、再分配をリスクヘッジで考えている。つまり、自分に他者が害を与えるというリスクを回避するために再分配を肯定しています。「自動車の自賠責保険と同様に」という言い方を彼自身使っていますが、最低限の所得補償だけではなく、国民皆保険の導入を主張しているのです。フリードマンが主張するような「負の所得税」を援用する形で最低限の所得保障を認めるハイエクの立場はベーシックインカム論の一種と解釈することも可能だと思います。

 田中:再分配の問題、特に太子堂さんの論文の中でも重視されている貧困の解消について、それを支えている考えが生存権です。この生存権について主にふたつの見方がある。ひとつは生存権を無条件に権利として認める立場。もうひとつはハイエクに代表されるようなリスク分散として生存権を認める立場ですね。例えば国際支援の文脈で、ジェフリー・サックスは、なぜ海外の貧困を先進国は解消しようとするか、という理由としてこのリスク分散の考えを提起しています。例えば、ベーシックインカムを支持する考えの中には、このふたつの生存権の見方―権利とリスク分散―が解消されないままに混在しています、これは太子堂さんの指摘でもあると思います。

 太子堂:例えば、前者の立場からベーシックインカムの導入を主張するフィッツパトリック(『自由と保障-ベーシックインカム論争』勁草書房)は露骨な言い回しでそのような右派左派が混在してベーシックインカムを支持している状況を批判しています。ただ私は貧困や格差の問題以外でも、旧来の右派の人も左派の人もハイエクの思想を受け入れる土壌があると思っています。共産主義であれファシズムであれ社会をあまりにも恣意的に運営しようとする政治の力が大きな弊害を招いた、というのが前世紀の反省で、そのような政策の恣意性を回避するというハイエクの考え方は党派にかかわらず理解されるのではないでしょうか?

 田中:ただベーシックインカムを一気に実現しようとする手法には僕は賛成できません。だいたい体制を一気に変えるという手法は、経験的にいうとそれを支持している人たちのイデオロギー対立を激化しかねない。制度変更という目的が同じでもそれぞれのイデオロギー既得権益の対立が表面化する。まあ、フランス革命のエピソードみたいなものです。自然とそうならないかな、と(笑)。

 太子堂:それならば田中さんもハイエキアンに転向ですね(笑)。

 田中:自然(笑)というか漸進主義的かな。

 太子堂ハイエクも漸進主義的な改革を目指してたんですよ。実はハイエクが嫌うのは、東欧の急速な経済自由化のようなビックバン型の改革なんです。ロシアのGDPが1992年から1998年の間に三分の一減少したような現象は、ハイエク的にいえば設計主義による混乱の一つなんですよね。急激な市場化を行うのも、理性の力によって社会を急激に変革しようとする「設計主義」なんです。

 田中:設計主義は自由化とイコールじゃない。

 太子堂:まったくおっしゃる通りです。ハイエクの名前は新自由主義的な構造改革でよく使われますが、彼が主張したのは長期的なスパンの話であって、短期的なスパンについてではなく、いま自由化すれば景気がよくなりますよ、という話じゃない。むしろハイエクにとってはそういう発想は政策における設計主義的なものであって批判すべきものです。

 田中:ますますハイエクになりますが(笑)、まさにおっしゃる通りです。僕もむかし、「構造改革なくして景気回復なし」という物言いを批判しました。いまもTPPや自由化でそのような短期の収穫を目指す物言いで政治家が支持を集めることに非常に危機感を抱いてます。

 太子堂:それはポピュリズムの問題だと理解しています。私がハイエクに興味を持ったのも大衆民主主義批判という文脈でした。経済政策をとってもその政治的意思決定というのは非常にあやふやなものだし、それは民主主義的な議会を通じて行われている。それをハイエクは「票の買収過程そのもの」と呼んで批判していますが、民主主義制度の持つ大きな問題だと考えていました。私の論文でも触れていますが、そのためにハイエクは議会制度の改革として、新しい二院制の提言をしています。個別的な行政のあり方を審議する下院はいまのように普通選挙で実施する。一般的なルールについての立法を担う上院は貴族院的なあるいは元老院的な、45歳から60歳までの男女の中から、過去に行政府や政党の主要メンバーを経験した人間を除いて、学識経験者なり優れた人間を世代別に間接投票で選んで、下院をチェックすべきだと。

 田中:そのハイエクの提言は面白い。いまの日本の二院制はハイエクの提言に比べると意味がない。例えば戦前のように貴族院的なもので参議院を代替する。社会的な貢献をした人や一定の税金を納めたものを優先的に入れる工夫もありではないかと思います。ただそういう二院制改革がしばしばいわれてても実行に日本で移されないのは、いまの二院制の在り方で利益を得ている既得権層が存在しているからでしょうね。例えば、日本のいまの二院制が結局は地方の声―農業部門の既得権益層(代表的には農協とか農協系の金融機関とかそれを支持したり、支援をうけてる人たちや政治家など)の声を大きく反映し、都市部の特に若い層の声を過小評価できる仕組みだからだと思ってます。例えばハイエクのような提案を実行すれば、戦前の日本のように地方の名望家や大地主、例えば太宰治の実家のような人たちは既に存在しないために、都市層が大半をしめるかもしれない。それを恐れているからでしょうね。

 太子堂:実際に上院をどう設計するかは難しい問題ですよね。寡頭制であれ民主制であれ既得権を持っている層が政治をゆがめるというのがハイエクの主張したい大きなことですね。そういう意味では、いまの日本ではハイエクは非常にラジカルだと思います。

 田中:ところでハイエクは政治的な恣意性を極力排除して、貧困の解消でも、社会の権利要求に基づくのではなく、リスク分散に基づく考えを主張してました。例えば、最近、ジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだのですが、オーウェルの描く全体主義社会では、リスクのコントロールを完全に行うことを目指していて、あの社会でも「党員」以外の貧困層が膨大な数存在しているのですが、徹底的にリスク要因はこの貧困層から取り払われていてリスクはゼロ。もしハイエクは再分配や貧困の解消をリスク分散から肯定化するとしたら、『1984年』のビックブラザーの支配する社会はその意味で再分配も貧困の解消をする必要がなくなってしまいますね。例えば現在の先進国でも似たような環境があって、自分の住んでるところは非常に管理されていて、犯罪もきたないものもすべて排除されている、そんなところが一国で普遍的になるとハイエクからみると再分配の問題は存在しなくなってしまう。

 太子堂:そうですね。そういうリスクゼロのような社会に対応するには、自由という価値が別に入ってこざるをえないですね。ハイエクにとって自由は単にリスクヘッジの問題ではないです。自由そのものがハイエクにとっても価値的なひとつの理念です。田中さんは藤田菜々子さんとのミュルダールをめぐる対談の中で、確か「理念」とか「理想」という言葉を使ってらっしゃいましたが、ハイエクも似た立場を採用してます。ハイエクイデオロギーという用語に実は好意的です。ここでいうイデオロギーというのは社会全体に対する意識のことですが、ハイエクはそれを「意見」「オピニオン」と呼んでいます。ハイエクの有名な二分法というのがあるのですが、彼は「意見(オピニオン)」と「意志(ウィル)」を分けていて、後者が社会の方針として採用されることには批判的です。ここでいう意思というのは、ルソーが主張したような一般意志でもそうですが、社会を特定の方向にもっていこうというビジョンで、これは設計主義につながる。それに対して、みんながある一定のルールの中で自由に行動できる、そうしたルールに対するさまざまなビジョンを「一般意見」といってハイエクは重視します。先ほどの議会制の改革に併せて、社会問題について判例を積み上げていく裁判官の立場がハイエクでは重視されていますが、その中では、裁判官が人々の「意見」や「イデオロギー」をちゃんと汲み取って、判例の蓄積を下に判決を下し、またそれが判例の一つとなるという形で立法することが重要だといっています。 

 田中:例えばそういう多様な意見を認めるという観点からすると、いまオーウェル的な世界の中に人間がいるとして、そこで排除されている人間がゼロリスクだから実際には飢えて死にそうになってても助ける必要がないという「意見」をもつ人と、いやリスクゼロであっても助けるべきだ、という「意見」をもつ人がでてくる。これはどう考えますか?

 太子堂:現実にもゲーテッド・コミュニティなんかはそういう問題を抱えてますね。ハイエクは少し矛盾することこがあって、やはり彼の考える自生的な秩序の中の理想的な人間というのは、そういうゼロリスクであろうとなかろうと、目前で飢えている人を助ける人間であると思うんですよ。そこを上手に正当化することにハイエクは失敗しているかもしれない。

 田中:この問題は重要だと思うのでまたあとで再考したいんですね。ところで、僕はマンガ版の『風の谷のナウシカ』ってハイエク的だと思うんですよ。今日は何話そうかな、と思いながら電車の中で、ナウシカハイエクの関係を話そうと思いつきました(笑)。

 太子堂:なるほど、ナウシカですか(笑)

 田中:マンガ版では、ナウシカは最後にオーマに命令して、神殿を破壊します。神殿には人類救済のための将来プログラムが入っているんですが、神殿からは現時点でのさまざまな禍のもとがでてくる。だからそれを破壊して現在を救済し、将来は人類の「運」にまかせる、ということですね。これは神殿という設計主義との競争に、ナウシカ的な自由が勝利しているとも読める。太子堂さんの論文でもハイエクの運に対する見方が、設計主義的なものへの対立の基軸だと思う。

 太子堂:そうです。

 田中:結局、将来はわからない。ナイト的な不確実性というか。

 太子堂:そうです。おおまかにいうとナイトもハイエクケインズもミュルダールもすべて不確実性を重視したと思います。経済というのはかならずしも均衡に達しない。ハイエク的にいうと、経済を絶えず均衡点からズレながらも続いていくというプロセスでとらえるのはみな同じです。ただそのズレが発散していくのを、ケインズのようにエリートがなんとかコントロールしようという考え方か、あるいはコントロールできないから、ハイエクのように基本的にはルールだけ設定して自生的な進化にまかすという違いはある。

 田中:ハイエクのルール重視の背景には人間が事態をコントロールできないという考えがある。不確実な事態の前で人間が恣意的なことをやっていったらますます事態が混乱してしまう。そういう混乱を回避するためにも、先ほど太子堂さんのいわれた「意見」を戦わす場が重要になる。アゴラ的なものですね。あ、もちろんあのしとのやってるアゴラじゃないですけど(笑)

 太子堂ハイエクの考え方も冒頭でいいましたが、いろんな考え方を取り込めるアゴラ的なものだと思います。

 田中:さっきの論点をもう一度振り返ると、管理社会の中のハイエク

 太子堂アーキテクチャーの中の問題にも絡みますよね。例えば、いまこの携帯で、自分がどこにいるのか監視されているともいえる。

 田中:そのアーキテクチャーの排除されてる問題があって、それでリスクゼロだと不可視なままオーライになってしまう。ハイエク的な問題がそこで社会的な排除の正当化につかわれる可能性もある。

 太子堂:そうですね。私自身の問題意識としては、まさにアーキテクチャー社会の中で個人の自由をどう維持するか、できるかということが重要だと思います。

 田中:アーキテクチャーがうまく配置されていれば確かに人々の生活が改善する。路上を監視して不審人物を事前に排除したり住民に警告できる。しかしそれで排除すべきでない人も排除されてても不可視になる可能性がある。

 太子堂:そうですね。自由のベクトルとアーキテクチャーのベクトルはかなり相反する方向にあるかもしれません。これからの社会においてハイエクを活かす上で一番重要で難しい問題はそこです。

 田中:そのアーキテクチャーの問題については、僕たち経済思想史の研究者ではほとんど議論が深まっていない。やってみる価値はあるね。

 太子堂:そうですね、アーキテクチャーの経済思想史には意義がありますね。

 田中:この自由とアーキテクチャーをハイエク的な視座でとらえるというのは刺激的ですね。いままでの議論は、だいたいが設計主義と非設計主義との対立に回収されている。70年代以前のいわゆる「大きな物語」の対立ではないもの。前回の坂上秋成さんとの対談読まれました?

 太子堂:はい。

 田中:坂上さんは、ゲームというアーキテクチャーの中で、いくつかの少女攻略ルートがあり、そのいくつかを選ぶとほとんどすべてで美少女を攻略できるハッピーエンドがある。でもそのハッピーエンドは実はある特定のルートで取り返しのつなかいことがその美少女に起きていることで担保されているという。ほかのルートや現実でハッピーでもゲームの別な世界では必ず不幸が解消されないで残っている。それを無視しようとすればできるけど、何人かのプレイヤーはその見殺しに非常に気持ちの悪い、居座りの悪いものを感じる、という話です。いまのアーキテクチャーの話も似てて、路上を監視して完全なリスクフリーが実現されてても、何か居座りの悪いものを感じる、そんな問題ですね。例えば、毎日毎日すごい綺麗に整備された道を通っていたら、ある日、血のりがべったりと通りの壁についている。しかしまた次にきたときは何もなかったようにきれいに拭き清められている、そんな気持ち悪さですね。

 太子堂ハイエクにおいては、単にリスクヘッジだけではなく、先ほども言いましたが、社会制度は人々の意見の反映だと、それが重要だということで、その多様な意見からいかに抽象化して制度をつくるかが問題です。なので、コミュニテイにおける議論や討議はそれ自体は重要なんですよ。ただそれを丸出しにして直接適用するのは部族社会だとハイエクはいいます。社会主義国家はまさに部族社会であり、先進国においても社会正義を求める声は「部族社会の情念」に基づいているというのです。困っている人がいて助けるのは当たり前というのが部族社会ですが、確かに小集団ではそうした感情や狭い範囲の規範だけで社会は運営可能かもしれません。しかし、ハイエクは「社会正義」を求める主張は、複雑な社会において人間の本能を丸出しに適用するものであり、一方、市場社会というのは逆に本能と対立するものといっています。その意味で市場とは単純な意味での「自然」あるいは「レッセ・フェール」ではないのです。

 田中:本能と対立すると市場はストレスの源泉になるのでは?

 太子堂:その通りで、そこはポランニーに似ているんですが、市場が拡大すると彼の言うような「二重運動」あるいは対抗運動がおこるという認識は共通していると思います。つまり、市場のみが社会から離床していく、これをポランニーは「自己調整的市場の拡大」と呼びますが、その中で既存の共同体の崩壊に耐えられなくなった人々が、ファシズム共産主義運動に救済を見出すという「社会の自己防衛」が生じる。似たような考え方でハイエクは両者を同根から生じたものとしています。ただハイエクの場合は、市場が本能をある程度抑制しているという見方です。人間が本能をむき出しでぶつかってしまうとホッブス的な世界になる。あるいは、そうした全体主義あるいは「部族社会の情念」へと回帰せざるを得なくなる。

 田中:まさにそれが象徴されてるのが貨幣の役割でしょうね。貨幣が存在するゆえにむき出しの本能が抑制されてるかもしれない。欲望の放埓を貨幣の価値がブレーキをかける形になっている。また自分の持っている「物語」も貨幣と同じように本能のむき出しを抑制している。自分がかくかくしかじかの人間です、という自分の物語は、人間の行動をある範囲に抑制する。自分のすごしてきた来歴、つまり「歴史」を知っていると、それを反故にしてその都度その都度の無制限な本能に身をまかすことはしなくなる。簡単にいうと自己イメージを人間は裏切った行動をしないという形で本能的な行動を制御できる。それを僕は「物語」の一面として考えてます。例えば「意見」を自由にいえるアゴラみたいな場所を、そのアゴラが形成されてきた由来=物語を知らずにぶち壊すことは、人間はなかなかできない。

 太子堂:その点がハイエクが「慣習」や「伝統」を重視したことにつながります。ヒュームとハイエクを似たようなものとしてあえて語りますと、両者とも時間の経過によって制度が成長していくことを重視する、つまり歴史の重視をしていますね。「伝統」を重視して、それが洗練されていくことでまた秩序が生まれていく。その意味でヒュームもハイエクも歴史的な制度進化を述べているといえますし、彼らの思考からイメージされる市場とはそういうものですね。

 田中:本能を制御するものとして、「伝統」も「慣習」もあり、また「市場」も貢献する。本能―慣習―市場という三角形ですね。さっきのアーキテクチャーの話もこの歴史的な制度形成の観点をいれるといいかもしれない。現在時点のアーキテクチャーがどんな由来でできたのか、歴史を問い続けることで、いまのアーキテクチャーの在り方を絶え間なく再考し続けることができるかも。歴史をみつめることで、アーキテクチャーの機能ゆえに不可視になった部分もわかる。オーウェルの『1984年』では、党員たちは絶え間なく歴史を改ざんしていまのシステムやアーキテクチャーがずっといまあるかのようなままであるとする作業に従事している。僕たち思想史家のやることはこの党員の現行のアーキテクチャーを承認するための歴史の改変作業ではなく、むしろ歴史という作業を通じていまのアーキテクチャーを絶えず反省していくことなのかもしれない。僕たちは見えなくなっているものを見えるようにする学問―歴史―をやっているわけだともいえますね。

 太子堂:まさにそこが思想の意義ですね。最後にあらためてハイエクフリードマンの違いを述べておきますと、フリードマン負の所得税や教育バウチャー(クーポン)制度をハイエクも肯定するんですが、何が違うかというとやはり歴史の認識だと思います。フリードマンはいまの福祉制度もガラガラポンでやめてしまって全面的に負の所得税のみに移行することを考える。しかしハイエクはそれに付け加える形で社会保険の必要性も認めますし、なにより、転換から生じる混乱を好まない。このハイエクの漸進的な改革への態度は、ハイエク歴史認識に大きく依存してますね。

 田中:ビックバン的な改革は、本能のむき出しの改革ゆえに避けるべきだというわけですね。

 2011年12月中旬 渋谷セルリアンタワーのカフェにて