ヘーゲル的円環運動とカント的楕円運動:日本の社会科学の口承的伝統

 ヘーゲルの円環運動とカントの楕円運動との違いと、それがもたらした日本の社会科学への影響について考えている。丸山真男ヘーゲルでは、以下の笹倉秀夫先生が丸山真男に行ったインタビュー記録は非常に役立つ。丸山は学的認識ではヘーゲル弁証法を利用するが、政治実践では弁証法の危険性ゆえに否定した。

 

丸山眞男インタビュー全3回の記録(1984・1985年) | CiNii Research

以下引用。

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この歴史(思想史)を対象化して論ずる際に、ヘーゲル的な円環運動=弁証法を採用しているが、政治的実践ではカント的な楕円運動=二元論を採用しているという丸山真男の姿勢は、確かにユニークではあるが、大塚久雄もまったく同じだと僕は思う。学的にはヘーゲル的円環で、宗教実践ではカント的楕円という立場。学的なヘーゲル的円環は、「中産的生産者」に資本主義の発生の担い手を見出した歴史分析に典型的に表れている。詳細は省くが、ヘーゲル弁証法がほぼダイレクトに適用されている。特に戦前の著作にははっきりとしている。他方で、宗教的な実践、つまりは「心の貧しさ」あるいは疎外など社会病理をどうかんがえ、それに取り組むかについては、楕円的な運動を大塚は求める。「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という両者の区別が社会問題、特に政治に関与するときには、キリスト者であれば必ず必要だ、と大塚は考えている。もちろんこの楕円的な運動は内村鑑三にもひとつのルーツをもつ(この点についても今日は省略)。その上で、これは大塚の場合は、特にマルクスの『資本論』の影響だろうが、この両者の区別でそれでおしまいではない。そうなればそもそも神の話を「心の貧しさ」を社会問題として持ち出す必要はない。個々の内心の問題として個々の信仰の課題とすれば事足れる。だが、大塚が取り組んでいるのは、社会問題としての「心のまずしさ」という課題(Aufgabe)だ。

 

この点を大塚は以下のように述べている。

ヘーゲルのばあいには、すべての矛盾が揚棄されつくして、そこに現れてくるのは理念の永遠なる進行です。限りなく、欠けるところのない円環運動です。マルクスのばあいには、いわば楕円です。最後に現れてくるのは階級であり、階級対立です。さきにも申しましたように、マルクスはそうした根本的な矛盾の解決をAufgage(課題)として人類につきつけているわけです。その問題提出が内容的にみて万全であるのかどうか、また重要な問題がなお看過されていないかどうか、現在では十分に議論の余地があります。けれども『資本論』におけるマルクスの問題の提起の仕方、そしてその篇別構成の論理的構造は現代でもなお生命をもちつづけているといってようでしょう」(『生活の貧しさと心の貧しさ』201頁)、「私は決して、マルクスの問題提起が万全であり、いささかも誤りを含んでいるなどとは考えませんが、或る重要な点を突いていることは確かであり、キリスト教の立場からも真剣に受け止めるべきものを含んでいるように思います」(同、203頁)。

 

この大塚の楕円運動を図式化してみよう。

 

ここでのAufgabeは課題というよりも、使命や課せられたもの、という方が妥当だろう。もちろん「解決ありき」=結果の論理優先とはまったく異なる。

 

丸山真男大塚久雄の円環と楕円については、20数年前に住谷一彦先生にインタビューしたときに教えて頂いた論点でもある。要するに彼らは複眼的な視点を円環・楕円でもっていたことになる。笹倉先生の丸山へのインタビューでも明らかなように、この複眼的思考は彼ら(丸山、大塚、住谷ら)の口承伝統に近いかもしれない。住谷先生は特に丸山の長電話相手であり、もちろん大塚からは若い時から信仰面も含めて助言と影響をうけていた。