ムダを見てみない振りする経済学

 20世紀の終わり(2000年)、僕は何人かの仲間たちと、作家の猪瀬直樹さん(現東京都知事)と一緒にメールマガジンの準備を進めていた。メールマガジンの基本コンセプトははっきりしていて、若手の経済の専門家を中心にして、猪瀬さんの著作『日本国の研究』で取り上げられていた日本社会で発生している膨大な「ムダ」の構造を剔出していき、世の中に議論を喚起し、そして適切な処方箋を伝えることだった。このメールマガジンを基礎としてやがてリフレ派(日本のデフレを脱出して低インフレで経済を再生することを主張する人たち)が誕生するのだが、今回はその話ではない。

 この日本の「ムダ」、それは多くは政府部門の「ムダ」をどう考えるべきか、ということだ。この日本の「ムダ」を考えるうえでの基本テキストはもちろん猪瀬さんの著作だ。それに加えて何冊かの参考書を読むようにと猪瀬さんから指定された。例えば、広瀬道貞補助金と政権党』、宮本憲一編著『補助金の政治経済学』、『中央省庁の政策形成過程―日本官僚制の解剖』、そして加藤寛氏の監訳マーサー・オルソン著『国家興亡論』、アンドレ・シュライファーらの『がっつりつかむ手』(未翻訳)などである。この中で特に僕の興味をひいたのが、オルソンの本であった。

 オルソンの代表的な業績といえば、『集合行為論』で展開された「ただ乗り」の分析だ。集団の規模が大きくなればなるほど、その組織に属する人たちは、自ら負担して何か組織改善のために動こうとはせずに、ただ乗りを選ぶだろう。例えば、これを政府に置き換えてみれば、多くの有権者は自分が政府の改善を熱心に行っても、そこから得る追加的な利益が自分の犠牲に見合わないことを知っている。そのため他者の努力にただ乗りをする方を選ぶだろう。またこのようなただ乗りは、(自分のただ乗り自体が損なわれない限り)政府がよくなろうが悪くなろうが知ったことではないとする「合理的な無知」を生み出すだろう。

 オルソンはこの分析を、国家がなぜ興隆し、また衰退するのか、という問題に拡張した。その成果が、先にあげた『国家興亡論』である。オルソンは、ここで「分配結託」という考えを強調している。どの国でも保護貿易的な考え方を支持する集団はあるだろう。日本では農協やその関連団体、米国では自動車メーカーなどをすぐあげることができる。これらの集団(特殊利益集団)は、もちろん自分たちの集団の利益しか関心がない。直接自分たちに利害が発生する仕組みに集団がなっているので、こちらは規模が大きくなればなるほど、自分たち一人当たりの分け前が増えることに関心をもつ。つまり特殊利害集団は自分の特殊利害という目的に合わせて集団を効率化することが多い。手法も洗練化され、時には「世論」を偽って自分たちの組織の代弁を行うこともやるだろうし、「公共事業」の名前で「非公共」的(=特殊利益集団の利益のみ増加する)な事業を、政治家たちをそそのかして行うこともあるだろう。
 しかもオルソンが注目したのは、この特殊利益集団が、先ほどの「ただ乗り」したり「合理的無知」を決め込む多数の国民たちとで、事実上の「結託」をしていることだ。後者は、前者(特殊利益集団)のぼったくりが目に余っても、自分たち一人がただ乗りできることが妨害されないかぎり、それを無視するか、あるいは知らないことですますだろう。これが国家というものに発生する「分配結託」のひとつの解釈だ。

 そもそももっと根源的に考えれば、国家というのはひとつの大きな(そして高圧的な)独占事業体だ。その発生するサービス(教育、防衛など)に対して、市場を通さずに、強制的な税を徴収することで維持されている。この税収(国家サービスへの料金)は、市場を通した場合に比べると(なかなか比較するのは難しいのだが、いまは棚上げして)かなり割高だ。その割高な部分は、いわば国家の側に発生しているレント(超過利得)になる。このレントの存在自体が、先ほどの「分配結託」を生み出す必要条件なのだ。
 このレントを収奪する経済行動を「レント・シーキング」といい、レント・シーキングに従事する組織のあり方を「分配結託」とオルソンは名付けた。

 さてちょっと専門用語がいろいろ出てきたので、ここで簡単にまとめると、「自分が迷惑に感じなければ、政府や国がぼったくり被害にあっても、国民の多くはスルーが正しいやり口。たまにはそのおこぼれも預かるかもしれないし」ということだ。
 この「分配結託」(レント・シーキングの組織化)は、国が栄えたり衰退したりするのとどう関係するのか? 例えば、ある特殊利益集団(日本のメーカー)が、政府に働きかけて、より安い資材を輸入するべく、関税の廃止を要求するとしよう。このような自分だけの利害しかみない行為が、自由貿易の進展となり、たまたま経済のパイの大きさを拡大することになったとする。または、景気が悪くなったのを口実に、土建業界の人たちが政府を動かし大規模な公共事業を行い、経済の回復と拡大に貢献したとしよう。こういうレント・シーキングは、特殊利益集団以外の国民にも恩恵をもたらすだろう。このレント・シーキングの社会的な便益を強調しているのが、タイラー・コーエンとかアミハイ・グレーザーとかの人たちの主張だ。

 コーエンなどはこの議論をさらに個人の内面的なレント探しに応用している。例えば、強権を持ちたがり名誉を重んじる政治家が、国家の軍事力を向上させることでその内面のレントをみたそうとする。軍事力を最も確実に保証するのは、経済力を高めることだ。そのため経済刺激策をこの強権的政治家は選択するかもしれない。まさに「私悪は公益」だ、とコーエンは指摘している。
このコーエンの描く軍備拡充志向の政治家が、経済全体のパイを大きくする傾向にある、という指摘はいまの日本だと妙に納得がいく状況だ。

 ところで、僕たちが猪瀬メールマガジンに関わっていたときに、より重要視したのは、国家の衰退に寄与するレント・シーキングのあり方の方だった。例えば日本国家に無数に巣食っていた特殊法人公益法人のネットワークだ。高級官僚が天下りするためだけに存在するような組織の群れ。これが国家の衰退(具体的には経済成長率の低下)をもたらすと考えられた。
 このレント・シーキング活動の負の側面を解消することが、2000年のときにはまだ名前もなかったが、翌年、「構造改革」と呼称されることになるんだけど、その話は続きで。

国家興亡論―「集合行為論」からみた盛衰の科学

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