もう10数年前に岡本真さんのARGに寄稿した次の論説を再録しておきたい。2001年8月17日にネットに掲載されたもの。このあと一年後ぐらいに、我々は事実上、メールマガジンの編集からは外れた。その意味でも「早すぎる思い出」ではあったw。リンク先がきれてるものがあるかもだが修正はしない。またメールマガジン自体はいまも続いてるが以下の記述内容と大きく異なっていることも注意してほしい。僕の肩書きも当時のまま。01年はまだ講師だったのかw
「メールマガジン「日本国の研究 不安との決別/再生のカルテ」について—私的な早すぎる思い出—」
メールマガジン「日本国の研究」http://www.inose.gr.jp/は2001年3月に始まった猪瀬直樹さんhttp://www02.so-net.ne.jp/‾inose/を編集長とする主に経済を中心的な問題としてとりあげる週3回配信(月水金)のメールマガジンである。経済的な話題、例えばデフレ危機、サラリーマン社会の行方、公共事業の見直し、特殊法人・公益法人の問題をできるだけ処方箋を明らかにしながら、30、40代前半ぐらいの若手研究者・エコノミストに寄稿や座談会に参加してもらう方針でやっている。このメールマガジンは最近書籍の形で出版され(猪瀬直樹+MM「日本国の研究」企画チーム編著『日本病のカルテ 一気にわかる! デフレ危機』PHP研究所)、シリーズ化される。このメールマガジンには論説や座談のほかに書評やまた猪瀬さんが『週刊文春』http://www.bunshun.co.jp/weekly/weekly.htmで連載中の「ニュースの考古学」が再録されるのも大きな特徴だ。
私はこのメールマガジンの上記企画チームに所属している関係から岡本さんに依頼されて一文を寄せることになった。このメールマガジンの猪瀬さんの発刊趣旨は書籍版にも書いているし、またメールマガジンのHPhttp://www.inose.gr.jp/kanto.htmlにも記載されている。それを読まれれば猪瀬さんの本当の狙いが正直に表明されているので私が贅言するまでもない。しかしここでは猪瀬さんとはやや違った角度からこのメールマガジンに参加するまでの私なりの経緯を書いておくのも多少の意義をもつかもしれない。そう思って岡本さんの依頼を快諾した。特に日本でのメールマガジンの歴史自体はさほど長いものではなし、特に経済分野を中心とした専門家が多数参加しているメールマガジンは、日本語では村上龍氏のJMM[JapanMailMedia]http://jmm.cogen.co.jp/しか寡聞にして知らない。それだけにこの猪瀬メールマガジンについて、まだ記憶が新しいうちに記録を残しておくのも価値があるかもしれない。ただこれは私だけの個人的でいささか歪んだ(?)感想の域をでないものなので、この記事だけをもってメールマガジンの性格を判定してほしくはない。またそれは実際に意味のないことだ。猪瀬MMは集団作業の産物なのだからその参加者のひとりでしかない私が何を述べても断片的なものに留まるだろう。読者諸賢が実際にこの猪瀬メールマガジンを購読して確たる感想をもたれることを望みたい。そんなわけで、以下ではこのメールマガジンにかかわった経緯をあくまで私独自のパースペクティブから述べてみたい。
1. 『サラリーマン』で知り合う
私が猪瀬メールマガジンにかかわったきっかけは、ある経済雑誌の調査を通じて猪瀬さんと知り合ったことに始まる。その雑誌の名前は『サラリーマン』(1928年創刊)。伝説的な編集者である長谷川国雄が創刊した幻の経済雑誌であった(現在、不二出版から復刻)。私は以前、ある出版社で編集をやっていて、それから大学院に入り直した。編集者であったその十数年前、この雑誌の存在を偶然に知ったのである。私はこの雑誌を、中村宗悦さんhttp://www.hyperchronicle.com/と一緒に研究することになった。1997年の年末からである。長谷川氏のご令息から『サラリーマン』全冊を借り受け、私は自宅でその研究をしていた。この『サラリーマン』を当時完全な形で所持していたのは長谷川家だけであり、その時点では私が保持していたことになる。
1998年の初夏であったと思うが、私の自宅に猪瀬さんから電話がかかってきた。私はその時点では猪瀬さんの著作を数冊読んではいたが、それも十年前ぐらいのことで、正直いってそのときどんなことをしていたのかは知らなかった。「そっちに見にいきますから」ということであった。有名な人なのに気さくな感じであった。
猪瀬さんはかねて親交のある草柳大蔵氏からこの『サラリーマン』の存在を聞いて興味を持っていたという。草柳氏は長谷川国雄の元部下であった。長谷川は『サラリーマン』時代に大宅壮一と親交を結び、戦後もその交友は続いていた。草柳氏はおそらく長谷川を通じて大宅門下とやがてなったのだろう。草柳氏と私は一面識もないのだが、実はこの『サラリーマン』をめぐって(というか私の人生の中で)懐かしさと悲しみの思い出にかかわる「名前」のひとつであるのだが、そのことは私のことで読者も関心ないだろうからかかないでおく。ただ私の家を訪問されたとき、草柳氏が機縁になっていることを猪瀬さんから聞いた私は『サラリーマン』にかかわる複雑な思い出が蘇るとともに、なにか運命的なものを感じたものだった。
いまでも恥ずかしいことだが、その日に私は猪瀬さんにポロっと「この出会いは運命的なものかもしれませんね」と、つい洩らしてしまった。猪瀬さんは笑みをうかべながら「僕がやってたら田中さんが待っていてくれたわけか」と、さすが大人の対応でこの誇大妄想狂の戯言を受け流してくれた。その日は猪瀬さんとその秘書さんとともに三人で午後の長い時間を戦前の経済雑誌問答ですごした。もちろんそのときはメールマガジンのメの字もなく、猪瀬さんとはそのときだけの出会いに終わるというのが正直なところであった。
2. 猪瀬MMメンバー最初の出会い
猪瀬さんと初めて会ってから1年近くが経とうとしていた1999年の初春であった。猪瀬さんのことも忘れてしまっていたある日、先の秘書さんから電話がきた。また『サラリーマン』をコピーしたいのでそちらに伺いたいとのことであった。今度は秘書さんだけが拙宅にやってきた。そのとき私がサラリーマン研究と並行してやっていた元同志社総長の住谷悦治についての研究報告(住谷悦治研究は宣伝させてもらうと年内に藤原書店http://www.fujiwara-shoten.co.jp/から刊行予定である)をある研究会でやるので、もし猪瀬さんがよければきませんか、とお誘いしたのである。猪瀬さんはちょうど『ピカレスク』http://www02.so-net.ne.jp/‾inose/picaresque/book.htmの連載に入る前でまだちょっとだけ充電期間中であった。その研究会は経済理論史研究会といって、今日のメールマガジンの主力である野口旭さんhttp://www.senshu-u.ac.jp/‾the0374/、若田部昌澄さんhttp://www.waseda.ac.jp/seikei/j/memb-j/wakatabe-masazumi-j.htmlらが参加していた。猪瀬さんは研究会に参加しただけではなく、その後の飲み会にも出席しみんなと親交を深める契機となった。野口さん、若田部さん、そして中村さんもそのときが猪瀬さんとの最初の出会いだったはずである。もちろんこのときもメールマガジンのメの字も出ていない。
3. MHETを立ち上げる
その研究会の後、数週間後だと思う。私はかねてから腹案でもっていたメディア(雑誌、新聞、TVなど)と経済学の歴史を関連させた研究会をつくるべきだという思いを、早稲田の居酒屋で若田部さんにぶつけた。従来の研究会や学会にはない分野横断的でしかもアカデミズムの枠にもおさまらない新しい研究会をつくろう。猪瀬さんは先の飲み屋の席で、今度事務所に遊びにきなよ、と誘ってくれたので、これを利用(?)して、猪瀬さんに研究会の代表幹事をお願いしよう。またアカデミズム側では代表幹事に八木紀一郎先生http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/‾yagi/research.htmlがいい、アカデミズムとジャーナリズムの融合した歴史研究会! ふたりのボルテージはあがった。すぐに中村さんも誘い、三人で猪瀬事務所に赴いた。猪瀬さんは本当に気持ちよく快諾してくれた。この新しい研究会は名称を「メディアと経済思想史研究会」(略称MHET)http://member.nifty.ne.jp/mhet/と名づけられた。代表幹事を猪瀬さん、八木先生にお頼みし、事務局を田中・若田部・中村で受け持った。発起人として赤間道夫さんhttp://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/akamachomepage/akamacj.html、深貝保則さんにも加わっていただいた。名誉顧問的な立場に日本の経済雑誌研究の泰斗である杉原四郎先生にお願いした。この研究会こそ猪瀬メールマガジンの基盤となった。MHETメンバーであり、いまの猪瀬メールマガジンに参加しているのは、猪瀬、田中、若田部、中村、赤間、野口をはじめとして、このAcademic Resource Guideの運営者である岡本さん、野村一夫さんhttp://socius.org/、小峯敦さんhttp://www.nsu.ac.jp/econ/staff/komine/komine.html、内藤陽介さん、吉田則昭さん、三田剛史さんらである。
メディアと経済思想史研究会(MHET)は1999年7月に発会した。総勢50名(現在は70名)という、研究会としては大所帯である。そのときの猪瀬さんのスピーチはここhttp://member.nifty.ne.jp/mhet/newsletter001.html#inoseにある。だがこのときもまだメールマガジンの話題はまったく出ていなかった。
4. メールマガジンへ
猪瀬さんとMHETの研究会をそれから数回ともにした。京都で開かれた第4回の研究会のの懇親会(2000年7月)の席上で、はじめて猪瀬さんから「(自分の)HPを変えたいけど何かいい案はないか」という質問を受けたのを憶えている。私は特にアイディアもなく生半可な返事をしたと思う。だがこの問いかけはそれから頭の中にあった。去年の年末に岡本さんにメールを出した。書評中心のメールマガジンもしくはHPは価値があるだろうか、という質問を内容としていた。岡本さんの意見は肯定的なものだった。同時に若田部さんたちにも書評中心で猪瀬さんのHPのコンテンツを構成しないか、という提案を出した。岡本さんたちに協力が得られそうなので、猪瀬さんに企画をメールした。すぐに反応があった。メールには「すごくいい企画なので至急電話ください」とあった。
5. メールマガジンの誕生
上の記述からもわかるように、当初、MHETを中心にしたメンバーはあくまで猪瀬さんのHPのコンテンツの企画として、しかも書評を中心としたHPというコンセプトで考えていた。ただ猪瀬さんはメールマガジンの発刊をちょうど考えていたところ、ぜひ協力してほしいということであった。ここでもまだ猪瀬メールマガジンの書評だけをやると私は思っていた。しかし年末の打ち合わせではメールマガジン全体に参加するような気配であった。あまりに錯綜して煩雑なので詳細ははしょるが、去年の年末から今年の3月まではまさにメールマガジンの企画や打ち合わせ、そしてそれにともなうさまざまな意見対立・調整・激論・笑いの日々であった。猪瀬さんも多忙だったが、がっぷりメールマガジンに取り組んだ。
猪瀬メールマガジンのコンセプトは「近代」から「現代」を見るということであった。この基本的な視点は猪瀬さんの「ニュースの考古学」の視点であり、それをもとに私が提案したと記憶する。はじめは書評だけだったのでインターネットに詳しい人やそこで書評をよく書いている人を中心に声をかけた。しかしメールマガジン全体の企画にも関与してくることで、座談会や論説で時事的なテーマを書ける経済学者やエコノミストたちを結集する必要があった。猪瀬さんの人脈は当初は経済系の人はあまりいず(政治・行政が中心であった)、これも課題となった。私はすぐに野口さんに参加をお願いし、また大学院の後輩であった飯塚尚己さん、山本克也さんを誘った。中村さんには三村義一さんらアナリストを何人か紹介していただいた。そして最初の全体の会合を開いた。20人近くが猪瀬事務所の応接室に詰め、そこで猪瀬さんがメールマガジンの趣旨を説明した。ともかく日本の現状を変えなくてはいけない、いま日本は危機的な状況にある、と思うと真剣に語りだした。読者に媚びない少数でもいいから熱心な読者に支えられたQuality Magazineをメールマガジンという形であれば作れると思う、ただ意見をいうだけでなく、読者にわかりやすく処方箋を提案したい、と熱をこめて語った。
ここにいる皆は、『昭和16年夏の敗戦』(世界文化社、1983)で書いた総力戦研究のメンバーと同じだ。将来の日米戦がどうなるか将来の大臣候補や官僚トップ候補、それに学者が結集して予想をたてた。みんなで日本の将来を考えた。それを今日再現するつもりだ、とも語った。
この発言の真摯さに圧倒された者もいたであろう。あるいは私のように自分はそんなライト・スタッフではないよ、と恥ずかしい思いを抱いたものもいたかもしれない。ともあれ、メールマガジン「日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ」は出発した。それから半年近く、当初よりも協力者は多様になりそれに応じて、私の関与もノーマル(?)なものに変化した。いまはAdvisory boardという感じで気楽にやっている。書籍も先に書いたように出た。まさにこれからがこのメールマガジンが世に真価を問うときなのかもしれない。
もっと細かい事情を書くはずだったが、それは不可能だということに気づいた。おそらく短編小説が書ける。いまはこれぐらいで終えておこう。これはあくまで私のちょっとした早すぎる回想にすぎない。あのいまから十数年まえに出会った一冊の古臭い経済雑誌は、形をかえて転生した。少なくとも私にはそう思える。だが、ほかの参加者はそれぞれの意見や思いもあるだろう。私の感想を押しつける気持ちはない。ただこれだけははっきりいえる。このメールマガジンは猪瀬直樹という日本を代表する作家と若手の研究者たち(そしてメールマガジンを支えるスタッフたち)が、異なる立場を友愛でもってこえ、まさに四つに組んで企画し運営してきた、まれな共同作業の成果であると。
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