saya、日本の心をうたう:内田義彦の音楽論と李香蘭との比較

いまから約二年前のコンサートを中心にした動画集。いまじっくりsaya論を某雑誌に寄稿するために取り組んでます。その基礎資料。

蛍の光」。3番4番が学校教育の場では歌われていない。その“失われた”パートを熱唱する。“いま”の日本をどう歌うべきか。sayaさんの探求の重要な契機となったもの。経済思想史家の内田義彦はかって、音楽は抽象的で無方向性を核に持ちながらも、同時に人を特定の方向にひっぱる絶対的な力の大きさ、その「恐ろしさ」について語った。それは人間が共通の場所=「自然状態」に引き寄せられながらも、同時に様々な方向に分裂していく力だともいえる。わかりやすくいえば、sayaさんの歌を聞くものは、そこに“いま”の日本という共通の場所に引き寄せられながらも、同時にそれぞれがそれぞれの特定の方向に強く引き寄せられる力を感じざるをえないということだ。共通の場所を普遍的な価値、それぞれが行く方向を特殊価値とすれば、普遍的なものを感じながらも、同時に各々が“今の”日本への個別具体的な思いを抱かざるを得ないだろう。その吸引と分裂のふたつの大きな力をsayaさんの歌にも感じるのだ。

かなり難しく書いてしまったが 笑。しかしこの“いまの”日本を唄うというこの2年前の試みの中で、おそらく意識されたであろう李香蘭との“闘い”もまた、“李香蘭”という共通価値を反復することで、その反復を極めることで、sayaさん独自のものが生まれてくるという動きも見逃すべきではないだろう。そして「蛍の光」の全編を唄いあげるということが、“李香蘭”の反復を極めることで得た独自性を、今度は自分の普遍と特殊の昇華としている。

「宵待草」

李香蘭のもの

「蘇州夜曲」
「蘇州夜曲」は原曲も個人的に大好きな唄だ。この唄を聞くたびに、映画の一場面と同時に僕自身が最初にいった中国、蘇州ではなく、北京大学の構内にある広い池、ちょとした湖を思い出す。

原曲の方

saya 日本の心をうたう~螢の光

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言葉と科学と音楽と―対話

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