内田義彦の音楽論

 経済思想史研究者の内田義彦が生誕して今年で100年だ。僕は内田の仕事にはかなり影響されている。彼の経済学に関する見解には反対しているのだが、その問題意識のもっていく方向には共感するところが大きい。その最たるものが、本人が必ずしも定式化しているわけではないが、文化現象を市場の無意識として重視する姿勢である。

 ここでは彼の音楽論である谷川俊太郎との対談『対話 言葉と科学と音楽と』から音楽に関する内田の発言から興味をひいた箇所を引用する。この内田の音楽論を僕流に換骨奪胎(つまり僕流に窯変)して応用したのが、『正論』に書いた歌手saya論であった。

 「谷川:僕はいい音楽・悪い音楽というものはない、つまり。上品な音楽・下品な音楽というのは基本的にはないだろうと思ってる人間なんですが、その音楽を受け取るときのその人間の状態によって、音楽は人を暗い、不健康なとことに引き込んだりすることもありうる、そんな気がするんです。
 内田:だと思いますね。ただ、その暗い、不健康な、という場合の健康概念ね、いったい何を指して“健康”と言うのか。それと“恐い”ということで言えば、モーツァルトを聴きながらアウシュビッツの“管理”を果たすとかいう、音楽の持っている抽象性というかな、無方向性。しかもそれ自体は無方向でありながら人を特定の方向に引っ張る力の大きさ、その恐ろしさを感じるのですね。ひとを引っ張る力の絶対値の大きさ。抽象化されて無方向であるがゆえに、、心の奥深くで語りかけ人間の行動を引出し組織するその力の大きさは演劇を超える。悪魔だか神だか解らんものに神の声を与え、神を同じ組織力を与える。(略)共通の場所へ引っ張る。だけど、その内容、方向はわからん。そんなところが、演劇よりももっと恐ろしい、大きな力を持っているだけに恐ろしい、そんな気がしますね」

 音楽の無方向性の強調、しかしいざ特定の方向に人間を引っ張っていけばとてつもなく大きな力を作用する。その恐ろしさの認識。

 「内田:(略)ただ、僕は、やはり音楽にはー音楽が抽象的であるだけにーいろんな他のジャンルで得た、あるいは得られる体験が抽象化されて入り込んでいて、そういう形で複雑で具体的な現実と連なっているような気がするんだな。抽象的であるがゆえにその全体に浸透し、全体を統合するものとして音楽がある。僕の場合には」

 この(現実と連なる)抽象的な全体的な統合性、これを内田はおそらく「自然状態」として理解している。

「内田:ええ、自然状態において、共通的なもの普遍的なものがつかめる。しかもそれぞれに個性的なかたちで。作曲家あるいは演奏家がドイツで作ったものを、いま、ここで私が聴くのですから。全然別な形で共通なものを認識するわけです。共通な、普遍的なものを理解することで、初めて個性的になる。逆に普遍的なものに触れることで、初めてヨーロッパを知ると同時に日本をあるいは日本に生きている私を知る。たとえば、谷川さんがヨーロッパでこれこそがヨーロッパであると感じられたことと、こういうものが日本である。そこに自分の原型がある、ということの発見とは、たぶん同時発見なんだろうと思うんです」。

 音楽(⇔自然状態)は普遍的で共通的なもの。その共通なもの、普遍的なものをつかむことが、個性的なものになる。その「個性」も行く通りの「個性」の同時発見であったりもする。まさに現実に生起する音楽の味わいの複雑さを内田は表そうとしている。音楽は共通価値をもつ一方で、同時にいくつかの特殊価値(=個性)の表出でもある、そう内田はとらえている。

言葉と科学と音楽と―対話

言葉と科学と音楽と―対話