荻上チキ『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか』

 これから日本で生活する人たち一人一人がどのように社会を考え、どのように一人一人が社会を変えていくか、そのような小さな希望(期待)を支えにする、大きな見取り図の本である。

 いまは社会や公共に参加したり、社会問題を考えるといってもそれはひとりの人間の全存在を賭けたものとはなりえない。私たちは細切れの消費(参加)の世界に生きていて、その無数の細切れの消費対象(参加対象)の中から、いくつか自分の好みや関心や、かっては「社会参加への情熱」といわれたものを裏打ちして、消費(社会参加)の組み合わせを選んでいる。好みや関心が細切れになってきたのと同時に、時間や予算の制約ももちろん考慮されている。これは一種のポートフォリオ選択の発想に近い。

 ちょっと長々と自説を書いてしまったが、荻上さんのこの本は、そのような細切れ消費の社会で、社会をどのように変えることにコミットするか、その考え方の大きな見取り図を与えてくれる。

 本書はまず現代を「配り合い競争の時代」から「削り合い競争の時代」に変容したものとして捉える。これは長年のデフレ不況による事実上のゼロ成長ともいえる状況を政治や社会の面からとらえたものだろう。荻上さんはこのゼロ成長的な状況を「経済停滞宿命論」としてみなすことを拒否する。それと同時に、この「削り合い競争の時代」で見えてきた社会問題、というか私たちの社会問題への取り組みへの変化を「見取り図」として新たに提起する必要性である。このような必要性は、荻上さんのシノドスをはじめとする様々な社会な試みや、そして売春(ワリキリ)研究の蓄積などから自然と立ち現われてきたのかもしれない(本書の終りには荻上さんの取り組みが紹介されているので参考にされたい)。

 本書では、社会問題を「社会のバグ」を見つけ出す、という言葉として言い換えられている。そして社会を変えるという言葉を「社会をアップデート」しよう、とも。単に言葉が変わっただけではない。いままで「社会的弱者」として表現されてきた人たちを、「弱者とは「弱い人」のことではなく、「社会の在り方によって、弱らされたままにされてしまっている人」のこと」と定義をあたえ、それゆえに社会をアップデートする必要があるとする。なぜなら社会の変容の仕方によってたまたま、ある人(例えばあなたが)社会的弱者に陥ることがあるからだ。

これはこのとき社会的制度の「バグ」を発見し対応することが望ましい。なぜなら僕ら個々人が次の瞬間にバグのせいで、弱者になるリスクを抱えているからだ。いま使っているスマホやパソコンのバグに対処するのと同じだ。従来は、弱者は「人権」によって逆に定義されてきてしまった、ともいえる(歴史的には違うのだが)。「人権」を持ち出すだけでは、社会のバグに対処することは、もはや難しい。なぜならバグ対処に使える社会的資源の制約が厳しく、また人びとの関心も細切れであり、そのようなお金と時間がきついなかで解決しなくてはいけない。

荻上さんは社会のバグへの対処は、「功利的な包摂」と「倫理的は包摂」のふたつのレンズをかさねることで解決しなくてはいけないだろう、と指摘している。ここでユニークで説得的なのは、前者の「功利的な包摂」だ。「あなたにとっても社会にとっても得になる」という発想だ。この発想の延長上に、社会疫学的な思考の重要性がでてくる。つまり社会問題の原因やその広がる理由、そして対処法を、早期発見(予防アプローチ)、早期対処(対処アプローチ)としてとらえる考え方である。その基本は機会費用に思いをめぐらすことなど経済的な計算が前提になっている。あくまでも社会と個人の得をベースにしているのだ。

問題は、いろいろある。細切れ消費社会が前提だとすれば、社会的バグも無数にあり、それに関心や対処することができる消費(参加)時間も細切れ(というよりも細切れのある種の組み合わせ)でしかない。重大なリスクも細切れの消費の中で見えなくなっている可能性もある。というかその可能性が大きいというのが本書のメッセージでもある。

そのときにどうするか? 本書では明示的な方向が示されている。それは「荻上チキ」の活動をみよだ。専門家(社会的バグにずっと関心を割く人)とふつうの人(細分化した消費・参加しかできない人)の中間にたって、両者を結び付ける人だ。このような存在をかって、編集者(よき触媒)とかツボを知ってる人(このエントリーを参照)として社会は理解し活用していた。

本書でもそのような専門人とふつうの人を結ぶツボを得て、そのツボを知らせることに情熱を傾ける人がいること、その存在の重要性に気づかせてくれるだろう。