リーマンショック以降、経済学の批判と見直しが盛んだ。経済学(経済的合理性を前提にした人間観)を批判することは、ほぼ経済学の誕生した時から行われている。例えば『クリスマス・キャロル』で著名なイギリスの小説家ディケンズは、『つらい時代』の中で当時の経済学(古典派経済学)を容赦なく批判している。
だが、この経済学の前提である経済的合理性人間観は、そのような批判者たちに対していままで何重ものガードでまもられてきた。リーマンショック後の経済学批判の暴風雨の中でも、『ゾンビ経済学』と形容されるようにしぶとく「復活」している。ところが、この経済的合理性を前提としている人間観を、頑強な実証&実験をもとに、そのほぼ転覆に成功しているのが、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるダニエル・カーネマンの業績だろう。そして本書はそのカーネマンの現在の考えを一般の人にもわかりやすく説明した、新しい時代の「経済学」の本だ。
本書は上下巻からなり、その内容を詳細に書くとたいへんな作業なので、その概要を全五部構成と序論&結論から、僕の関心を引いたところだけを抜き書きするだけで紹介をとどめたい。ともかく面白いし、経済学を学んだことがない人にとっても十分刺激的だろう。
そして本書の題名にもなっている「ファスト&スロー」とは何か? 人間がいかに判断するか、いかに選択するかの、出発点として、カーネマンは、ふたつのタイプ(ファスト=速い思考と、スロー=遅い思考)に注目していることが説明されている。本書では速い思考をシステム1と、遅い思考をシステム2ともよんでいる。本書では、主にシステム1が主人公で、システム2はわき役だが。ほとんどが両者の相互依存関係を重要なテーマとして考察しているといっていい。
システム1とシステム2の相互依存関係を考察するときに重要なのは、システム1の連想記憶という核になる部分だ。システム1がいかにさまざまなバイアスをもたらしてしまうのかが詳細な実験例や実例をもとに述べられている。そして本来はその種のシステム1のバイアスを正す役割をするはずのシステム2は、そのような自己コントロールに多大なエネルギーを要すること&本来の怠け性分で、このバイアスチェックが常にうまくいくとは限らない。
先にシステム1の連想記憶がそのシステムの核だと書いたが、本書では例えば連想記憶が直面する現象のひとつとして「プライミング(先行刺激)効果」をあげている。例えばある学生にいくつかの単語(その単語には「老い」を「連想」させる言葉が多い)を用いて文章を作成させる。その後の彼ら学生の行動が老人じみていたというものだ。
このようなシステム1の「エラー」を制御するはずのシステム2もまた上に書いたように万全ではない。また「感情」などでその機能は大幅にダウンする。例えば特定の政党が好きだという場合、その政策への判断が歪むことがあるなど。システム2はこのときシステム1の「監督者」であるよりも「擁護者」にまわってしまう。
またシステム1が判断を行う際に、統計的な思考をうまく採用できないことが第二部で詳細に説明されている。例えば、1)業績はあまりないが採用面接のうけがいい人、2)業績がしっかりしているが面接のうけがよくない人、このとき1)がよくみえてしまい1)をとっさに採用するヒューリステック(近道の解決方法)は、「少数の法則」というバイアスに直面している可能性がある。つまり今目の前の状況がいいというだけの事例の数(サンプルの数は1)だけで、判断を決めてしまうということだ。本来なら2)の人を採用すべきだろう。しかしこのバイアスを解消するのはなかなか難しい。本書でもこのバイアスの回避方法(回避する必要もない条件も明示している)を解説している。
さらに第三部では、タレブの『ブラック・スワン』に示唆をうけて、例えばリーマンショックのような現象を予測できなかったことをいかに人は誤魔化すか、そのごまかしの背景にある自信過剰な現象を詳細に説明している。そこでは、過去を解釈するときの後智慧の欺瞞ともいうべき現象が批判の対象だ。だが、他方でこの自信過剰はいい側面ももっている。ベンチャー起業家の多くは「楽天的」であり、彼らは客観的な失敗確率を半ば無視して事業を行っている。それが資本主義の活力をもたらしているのかもしれない。この面でいうと、例えば日本の政府の行う産業政策(将来有望な部門を発見して政府が誘導や投資を行う)というのは、このベンチャー起業家が政府や日本銀行などに置き換わっただけともいえる。カーネマンのこの分析は、産業政策や産業金融の陥るバイアスにも応用できるかもしれないので以下にその「認知バイアス」の特徴を書いておく。
主犯はシステム1の「見たものがすべて効果」(産業政策でいえば政府の旗振り効果といえる)。
1 私たちは目標に注意を集中し、一度立てた計画がアンカーとなり、基準率を無視する。その結果、計画の錯誤に陥りやすい。
2 自分がしたことやできることばかり見て、他人の意図や能力を無視しがちである。
3 過去の説明をしても未来の予測にしても、能力のせいだと考えたり、幸運が果たす役割を無視する傾向がある。その結果、自分の能力で結果を左右できると思い込む『コントロールの錯覚」に陥りやすい。
4 自分の知っていることを強調し、知らないことを無視する。その結果、自分の意見に自信過剰になりやすい。
第四部以降は、より経済学の話題が全面にでてくる。そしてシステム1とシステム2に加えて新しいふたつのカップルが演者として登場する。その二組のカップルは、「エコン」と「ヒューマン」、そして「経験する自己」と「記憶する自己」だ。
「エコン」とは経済学、例えばフリードマンが前提にしている選択することにコストはかからないと考えている経済合理性の主体のことだ。対して「ヒューマン」は選択することにはコストがかかっていること(そのひとつがバイアスだ)に注目している。例えば第四部では、期待効用仮説を「エコン」として、それとは異なる見方(参照点、損失回避など)の選択行動が解説されていて面白い。後者はプロスペクト理論として下巻ではカーネマンの代表的な専門論文も収録されていて便利だ。
「プロスペクト理論が規定するヒューマンは、富や効用の合計の長期見通しではなく、利得と損失に対する瞬間的な感情反応に従って行動する」
ヒューマンは損失の方を利得よりも回避する(損失回避)、あるいは判断するときの参照点(その時の状態)で判断が歪む。
「経験する自己」とは、「経験効用」から考えるとわかりやすい。人がそのお菓子をたべてその瞬間瞬間に感じる満足をいう。この経験効用を感じる自己を「経験する自己」といっている。それに対して記憶から得る満足を「記憶効用」」とし、それを感じている自己を「記憶する自己」という。このふたつの効用が一致すればふたつの自己もまた一致する。しかしそれはまれでしかないかもしれない。
例えば人生は「物語」だ。その「物語」が深い満足をともなうのかどうか。そこに大きなバイアスが潜む。例えば人生の「物語」の大半が苦労の連続で苦痛しか感じないとする。だが人生の最後にはとても幸福な時間が訪れるとする(映画でいうとハッピーエンド)。このとき私たちのふたつの自己は引き裂かれ、経験する自己は沈黙し、記憶する自己が大きくふるまう。いままでの苦労の連続という「持続時間は無視」され、ピーク・エンドの法則が支配する。「終わりよければすべてよし」。
この持続時間の無視とピークエンドの法則は、過剰な労働やある種のカルト的な体験(それによる信仰の強化)を促すかもしれない。これはカーネマンははっきりとは書いていないが。例えば何日も徹夜で仕事をする。しかしその成果が素晴らしいものと周囲に認められればいままでの苦労がふっとぶ。これは過剰労働(えてして現実の肉体と精神をむしばむだけでなく社会的にもコストを招来しかねない)の温床になる。つらい修行生活(閉鎖された道場での勤め)などが最後には「新たなステージ」への幕開けとされると人はやはり「経験する自己」よりも「記憶する自己」を優先するだろう。
このような現実の人間の肉体や精神を毀損したり、それが社会的なコストを発生させるケース(ブラック企業の職場環境など)は、政府が緩やかに規制したり、誘導して回避させることが必要になってくるだろう。ここに選択のコストを社会的にどのように負担していくか、という本書の政策的なひろがりがある。
とても面白い本である。上下巻とゆっくり読んでいくと時間がかかるが、それで得るものは極めて大きい。これからの経済学の方向や政策の在り方を考えるうえでも必読のものである。
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