書評:Yasuma Takata “Power Theory of Economics”St. Martin's Press:経済学史学会『年報』1997年掲載

  本書は、日本の近代経済学の歴史の中でも独自の位置を占めると思われる高田保馬博士(1883ー1971)の業績から、いくつかの著作を選び出し英訳したものである。高田保馬(以下敬称略)は、戦前の日本の近代経済学及び社会学の2つの分野においてその形成に先駆的な役割を果たしたことで知られている。生前公にされた著作は、膨大かつ広範なもので、分野を問わずにあげれば、約100冊、論文数は約500本にも及んでいる。また単に欧米の業績を紹介・批判しただけではなく、自ら「勢力説」を唱え、これを中核として従来の経済学や社会学を乗り越えることを、高田は企図していた。本英訳は、森嶋通夫氏を代表編集人として刊行されているClassics in the History and Development of Economicsシリ−ズの一冊であり、また森嶋氏自身による解説が巻頭におかれている。本書の第一部は、『勢力論』(1959)から抜粋されているものであり、また第二部は、勢力説を経済学に適用した著作『勢力説論集』(1941)、『価格、労銀、失業』(1946)からその一部分が収録されている。編集の意図を反映して、高田の経済学と社会学の各々の特徴と両者の関連が、かれ独自の見解である「勢力説」を中心にコンパクトに展望できるものになっているといえよう。今日、高田の業績は日本の若い世代の経済学者の間で話題に上がることはほとんどないだろうし、また高田の著した邦文の書籍が簡単に入手できない中で、このような英訳の形で高田の著作に触れることができるのは有意義で便利なことだろう。本英訳が契機となって、高田の業績の再評価がさらに進むべきであると私は思う。

 ところで高田の「勢力説」とはどのようなものなのだろうか。それはまた経済学とどのような関連をもつのであろうか。以下では、本英訳の中味を順に追いながら、そのほかの著作での発言も加味しつつ説明したい。高田の勢力説的な経済学の起源は、制度派経済学のヴェブレン、経済心理学タルド、社会経済学のヴィザーなどに求めることができるかもしれない。高田の勢力説的な経済学はこれらの理論と同様に経済組織に制度や慣習がどのような形でかかわっているかを明示的に分析しようとしたものであった。ただ高田の勢力説の基礎には、ヴェブレンやタルドなどと同じように独特の欲望論に基礎づけられた人間心理に関する考察があったことは見逃してはならないだろう。本英訳では、割愛されているが、高田は「勢力」概念を人間の多様な欲望のあり方からとらえ、それに基礎づけられていると考えていた。人の欲望は、単なる生理的・肉体的な欲求の充足を求めるものから、人間関係で他者に優越したい、そして自らに従属させたいとする欲望まで階層的で多様な形態をとる。

本書第一章「社会的勢力」では、他人を社会関係の上で支配したいという欲望を充足する能力のことを、高田は「社会的勢力」あるいは「勢力」として特に重視する。なぜならこの「勢力」を追及する欲望を中心にして、分業や階級制度、そして経済活動を含む多様な社会行動が形成されているからである。第二章「勢力の形態」ではさまざまな形の勢力の分析が行われている。ただ本書にはでてこないが、高田は「勢力」概念を用いて経済分析を行う際に、「経済的勢力」と「経済外的勢力」との2つのカテゴリ−に分けていることに注目したい。経済的勢力とは、簡単にいえば金銭や財・サ−ビスを利用して他人を支配する力である。高田は経済的勢力を具体的に、労働組合のもつ独占な交渉力として例示している。一方で、経済外的勢力とは、このような財や金銭などの介入を利用しないで、直接に他人を動かす能力として説明されている。たとえば、伝統、習俗、慣習、世論、思潮、評判などとして作用するものである。高田の勢力説的な経済学の特徴は、後者の経済外的勢力の重要性を強調し、生産物市場、生産要素市場(特に労働市場)、景気循環論などに果たす役割を考察することにあったといえよう。例えば、第三章「勢力と経済」でも論じられているが、伝統や慣習などの観点からみて、労働者の賃金が彼らの社会的地位や威光を損ねるような水準では、労働者はその賃金水準を許容しないだろうし、また雇用側も社会的なペナルテイや制裁を恐れて、経済外的な勢力を加味した賃金を支払うことになると説明されている。このような状況の下では、賃金水準は完全競争的な場合よりも高い水準で硬直的になるとし、この硬直的な賃金水準の存在に失業の原因があるとした。以上のような経済外的勢力を重視する立場から本書の第二部は、勢力説を経済学に適用したときにどのような新しい意味をもつのかが説明されている。

 高田は、第四章「ヴィジョンと分析」にあるように、従来の経済学(特に新古典派経済学)は「効用経済」を扱うものとしている。「効用経済」とは、経済主体が各自合理的な判断に基づき、効用最大化や利潤最大化を行うような経済である。このような効用経済では勢力の存在はまったく考慮されない。その代表的な見解が、ワルラス・カッセル的な一般均衡理論であり、勢力など考慮せずとも経済的に意味のある均衡解の存在が保証されている。しかし効用経済の分析はあくまで現実への「一次接近」にしかすぎないと高田は指摘する。より現実に近づくような「二次接近」として、勢力の作用を考慮した「勢力経済」の分析が必要とされると主張した。ただ高田のこのような主張は、かれの理論的な展開の中で何度かの立場上の変遷を重ねている。高田は勢力説的な経済学を主張し始めた当初、ワルラス・カッセル的な一般均衡理論の均衡解は勢力を考慮していないので経済的な意味に欠けると批判していた。すなわち現実への一次接近としてさえも意味がないとしていたのである。しかし高田のこのような一般均衡論への批判は、中山伊知郎の反批判や戦前日本を訪れたシュンペーターとの会話を契機として取り下げられ、本書にあるような「一次接近」「二次接近」といういわば両論併記の方向に転換したのである。だが勢力を加味した一般均衡論それのみが現実を表しうる唯一の均衡であるとする当初の主張は、高田自身の著作の中で何度も復旧し再考された。

 第五章「批判と反批判」は、勢力の存在を考慮してきた経済学者のうち特にベーム・バヴェルクの勢力無力論を考察・批判している。ベーム・バヴェルクによれば、労働市場においては、労働者階級の勢力の存在によって短期的には完全競争的な場合とは異なる賃金水準が実現されるとした。しかし長期的には勢力による賃金の水準は維持することが不可能であり、市場の調整メカニズムによる均衡賃金水準が支配的になるとし、勢力は長期には無力であるとした。なぜなら労働者の勢力により競争的な賃金よりも高い水準の勢力的賃金が獲得されたとしても、同時に市場には失業が存在することになるから、労働者階級の生活水準が全体として悪化する可能性がある。この場合労働者は勢力を発揮し続けることは困難になるとした。高田はこのベーム・バヴェルクの批判に反論し、勢力の存在は短期的に有効に作用するだけでなく、長期的にも影響を持続するとした。なぜなら現実の経済をみるに、長期にわたる持続的な失業が存在している。このことからも勢力が長期にわたって有効であるからこそ失業がみられるのであって、ベーム・バヴェルクのように長期では勢力の作用が無効になっているのではないと高田は述べている。この高田によるベーム・バヴェルク批判は、前述の中山や柴田敬、そして木村健康などの所説とからんで戦前の日本の近代経済学の歴史の中でいわば「勢力経済学論争」を引き起こすこととなった。この論争の過程で、高田の経済学における勢力の位置づけは微妙にゆらいだ。勢力経済のみが真の経済分析の対象なのか、それとも効用経済の分析と勢力経済の分析はともに両立するのか、そのどちらの立場をとるのかが、悪くいえば混沌としたまま高田の主張の中で放置されたままになってしまったといえよう。

 第六章「諸結論」は、そのような高田自身の立場の曖昧さがはっきりでてしまっているといえる。簡単にいえば、この章では異なる目論見をもった2つの勢力経済の分析が展開されている。第一は、勢力を考慮しない一般均衡分析は経済分析にあらず、とした主張を引きずるベーム・バヴェルク-ヴィクセルのミクロ的な新賃金基金一般均衡モデル。第二は、効用経済の分析をとる立場を一次接近として認めながらも、現実には勢力経済の分析の方がより説明力をもつとして、特にケインズ非自発的失業理論の批判とその修正という形でマクロ経済的な見地から議論したもの。この両者がはっきりとした関連をもつことなく併記されている。好意的にとれば、この両者の結びつきを考えることで、今後の高田的な勢力経済学に取り組む面白さがでてくるともいえるが、他方でただ単に既存の諸理論をすべからく勢力という一観点でのみ批判したものとも受け取られかねない。実際、このような理論的・方法論的な不徹底さが原因したのか、高田の勢力説的な経済学は長い間、その理論的な後継者を見いだすことはなかった。特に日本の戦後の近代経済学では十分な検討・言及の対象となることすらなかった。しかし、近時、社会制度や慣習を経済学の分析において重視する論者たち、たとえばアカロフ、コルム、ソローらの主張が注目されている。また日本でも事情は同じであろう。このような環境の中、高田自身の解決しえなかった問題の再議論とともに、勢力経済学が現代の理論との関連の中で再び検討されることを期待したい。