ノーベル平和賞がインドのカイラシュ・サティアルティ氏に授与された。児童労働への反対運動を評価されてのことだという。このエントリーでは、児童労働がなぜ経済学的な意味で悪いのかを過去の経済学を利用して少し書いてみたい。
ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセン(1810−1859)は経済学の歴史の中で、限界効用逓減法則=ゴッセンの第一法則、限界効用均等法則=ゴッセンの第二法則を提起したことで知られている。ただこのふたつの経済学的に重要な命題を述べた彼の主著『人間交通の発展並びにこれより生ずる人間行為の法則』(1854)を読んだ人はほとんどいないだろう。ゴッセンの著作の翻訳は、戦前に手塚寿郎抄訳『ゴッセン研究』として、最近では池田幸弘訳が出てはいる。
ある消費対象(ゴッセンだと享楽対象)を追加的に消費したときにもたらされる満足(享楽)を限界効用という。この限界効用は、追加的に消費対象が増えるごとに低下していく。これを限界効用逓減の法則と名付けた。簡単な例だと最初の一杯のビールは美味しいが、杯を重ねるごとにその一杯がもたらす満足が低下していく状況を示す。
また限界効用均等の法則とは、様々な消費対象から得られる効用(享楽)を最大化する条件は何かを示すもの。各財の限界効用と価格比率がそれぞれ等しくなるように人は消費対象(享楽対象)を選択することで効用(享楽)を最大化できるというもの。
いまふたつの財があるとして、それを追加的に買うために支払うお金から得られる満足(享楽)がちょうどふたつの財で等しくなる、と考えればいいだろう。
以上のゴッセンの法則の重要なポイントは、人が主体的に選択することで自分の効用(享楽、満足)を最大化するように行動していることだ。労働するときも同じ議論が成立する。
ゴッセン自身の言葉を引用しよう。
「人生の享楽を最大化するには、異なった享楽を充足するのに、それぞれの享楽について、その最終単位の価値が、これを力の表出によって創造した最後の労苦の大きさに等しくなるように、時間と力を配分しなければならない」(池田訳56頁)
この訳文でいう「それぞれの享楽について、最終単位の価値」というのは、上で書いたそれぞれの消費対象の限界効用と価格の比率のことである。これが丁度それらを生み出すために使われた「最後の労苦の大きさ」(=労働の負の効用、負の享楽)とちょうど等しくなるように、自分のもつ時間と労働を配分することが、我々の人生の享楽を最大化するというわけである。これはケインズが後に古典派経済学の第二公準として述べたものの古典的な表現である。ケインズの表現では、「ある量の労働が雇用されたときの賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい」(山形浩生訳『雇用、利子、お金の一般理論』)。
ゴッセンによれば「人間交通の法則」によって、つまり市場での取引によって我々の享楽の度合いは向上する。労働市場においても自由競争によって我々の享楽は最大化される。しかし政府が補助金を与えてしまうケースが発生すると我々の享楽は最大化されるとは限らない。ゴッセンは極力市場への国家介入を排除した。その意味ではゴッセンは辻村江太郎の言葉を借りれば「ウルトラ自由主義」的な側面が強かった。ただし例外がある。その例外のひとつが、児童労働についてだ。
今日の言葉でいえば、人的資本の蓄積を阻害することで、児童労働は労働者の悲惨な生活水準をもたらす。また彼らが成人して子女をもうけたときにも、その子らを十分な教育をうけさせることなく働かさせることで、世代をまたいで悪循環を繰り返していくことになる。このとき親の所得の不足を補う役目を担っていることで、その子供たちが事実上の家族内搾取を受けていることになる。そしてこれがまた子供たちの人的資本の蓄積の不足に繋がる。ここでは格調高い手塚の訳文でその部分を引用しておこう。
「工業労働者の運命が著しく悲惨の状態にあるは如何なる理由に由るや。機械の構造は多くの生産業に於いて人間形成の全からざる年齢に在る者の肉体力を駆使するを可能ならしむること其一にして人間の利己心が此酷使に恥辱を感ぜしめざること其二なり。幼時より工業労働に服役し酷使せらるるときは精神的肉体的欠陥を生じ他の労働に適せざらしむ。其結果彼は交通関係上の弱者と化し、其報酬は愈低下し、止むを得ず、其子女をして所得の補充をなさしむるの策に出づ。而も子女の賃金は一種の補助金たるが如き作用をなすが故に彼の賃金は益低下して止まず。益々子女を酷使せしむる必要を生ず。斯くて遂に該労働者の賃金は生活支持を不可能ならしむるまで低下すべし。故に同時代の成人たる精神的肉体的教化と発達を得るまで人をして生産業に就かしめざるによりて工場工業の弊害は除去せらるるを得ん」(手塚訳125頁)。
ここでは親(=人的資本の蓄積に不足し、その水準は彼の子女並み)はその子供らとの競争にさらされているといっていい。賃金水準は子どもたちの水準にまで低下していく。さらにこの低下を補おうと子供たちをより働かせることは、時間単位あたりの賃金をより切り下げることにつながり、それにつれて自身の賃金も低下していく。未熟練な親と子どもの競争と子どもの一層の労働強化によって、貧困が加速していく。そしてさきほど書いたように、これは世代をまたいで親から子へ、その子供たちへと連鎖していく。
ゴッセンは児童労働の抑制と同時に、子どもへの教育、さらに女性への教育を重視した。なぜなら「享楽の法則は性の如何によりて異なること無し」だからである。
ゴッセンの著作はまったくの不評で、あまりの不評に彼はそれを絶版したという。しかしその著作はいまでも難解でははあるが、今日のノーベル平和賞につながる先駆的な業績だったといえよう。
関連エントリー(以下の動画でゴッセンの児童労働について言及している)
片岡剛士&田中秀臣「リフレと再分配の政治経済学」
思想史&現状分析編
第五回 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20140510#p1
第六回 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20140511#p2
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上記エントリー中にも書いた辻村江太郎のゴッセン論を収録したのは以下。
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