書評再録:松嶋敦茂『功利主義は生き残るか』(『週刊東洋経済』掲載)

10年くらい前に書いた書評。松嶋氏のこの本はとてつもなく難しかった。

『週刊 東洋経済

功利主義は生き残るか』松嶋敦茂

評者:田中秀臣

 経済政策を評価する基準としてどんな価値判断を採用するか。この基本的な問題について同書は徹底的で、また経済思想史的な展望をふまえて論議している。その際、本書の題名にもなっているが、功利主義の今日的意義が最も詳細に検討されている。功利主義とは、「最大多数の最大幸福」に代表されるように社会の成員全体の幸福を最大化する政策に対して最も高い評価を与える価値判断である。しかしこの功利主義はいままでふたつの方向から厳しい批判をうけてきた。ひとつは功利主義が個人間の幸福(効用)を比較可能であると前提にしてきたが、それは計測不可能であり、単にわれわれは観測された選択から人々の選好の順番を知ることができるにすぎない、とする論理的な批判である。この種の批判が序数主義として長く経済学の正統の地位にいた。もうひとつはロールズたちの契約主義による批判であり、功利主義では最も富んだ者(例えば独裁者)がより多くの効用を得て、一方で最も貧しい者がより少ない効用を得ても全体の効用が最大化してしまうので、そのような状態は社会的に支持できない、というものである。すなわち最も緊急性を有する人の苦難を救うことが、功利主義では難しいという指摘である。

 しかし本書では、これらの難問への回答が功利主義の立場から鮮やかに展望されている。前者については、近年、猛烈な勢いで進展した個人間の効用比較の可能性が詳述されていて、この意味で新古典派的な序数主義が終焉したことを読者にわかりやすく説明してある。新古典派経済学では個人比較が不可能だから、いままでは事実上独我論に陥っていたわけだが、それが人間のさまざまな感情の多様性を客観的にとらえることが可能になったというわけである。
また後者の契約主義からの反論については、個々の人の状態の改善と社会全体の状態の改善を区別し、前者は後者によって制約されると考える規則功利主義、制度功利主義の立場を紹介している。先のケースでいえば、最も緊急を要する人の状況が、社会の認めている規則や制度の見地から正当化されなければ、この人の状況を優先して改善し、そのためには富んだ者の状況の悪化も許容する、というものである。つまり修正された「最大多数の最大幸福」とでもいうべきものである。

本書は近年の経済倫理学の最前線の話題を素晴らしい慧眼で見据えたすぐれた著作であり、最近の市場原理主義中心の世論への抗弁としても有力な基盤を提供するだろう。

功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて

功利主義は生き残るか―経済倫理学の構築に向けて