適菜収『日本をダメにしたB層の研究』

 「B層」とありますが、もはやオルテガの「大衆」を、さらに先鋭化した適菜さん流の「大衆」のカテゴリーとなっています。相変わらず面白く読むことができました。常見陽介さんの時論のいくつか、中川淳一郎さん、山本一郎切込隊長などのネット論などにも関係していくのではないでしょうか。

 まずB層ですが、このネーミングの由来になった広告会社の定義よりも、適菜さん自身のものがいいでしょう。

 まずオルテガの「大衆」の定義ですが、「その本質そのものから特殊な能力が要求され、それが前提にとなっているはずの知的分野においてさえ、資格のない、資格の与えようのない、また本人の資質からいって当然無資格なえせ知識人がしだいに優勢になりつつある」というものです。これだと「知識人」という枠があまりにもせまいように感じますが、適菜さんはネットの普及がこの「無資格なえせ知識人」の量を爆発的に拡大したとみるわけです。

 「そこでは、知が軽視され、無知が称揚される。バカがバカであることに恥じらいをもたず、素人が素人であることに誇りを持つ。素人が圧倒的自信を持って社会の前面に出ていく。こうした社会の主人公がB層です。B層とは、近代において発生した大衆の最終的な姿です」(59頁)。

 いまの日本の政治や文化シーンの個々の解説や評価については、僕とはかなり違うものがあるのは当然かもしれません。なぜならここで問題になっているのは明らかに一種の美学的(趣味的)なものです。その審美眼的な水準についての争いがあるのは間違いないでしょう。

 本書では、ルソー的な伝統(一般意志として大衆の名前をかりた法の破壊に至るプロセス)をきわめて否定的に論じています。この文脈の中で「人権」も否定的な扱いですが、僕はこの「人権」を法として(というよりも人権=法)ではなく、倫理として擁護する立場です。「同情」や「正義」の胡散臭さは理解していかなければいけませんが、それがそのまま倫理としての人権の否定につながることを僕は拒否します。ただ適菜さんの本書での指摘はあくまでも、法としての人権にかかわる論点が中心だと僕は理解していますが。

 本書は上記の意味でのルソー的伝統、そして民主主義的な伝統をきわめて危険なものとみなします。確かに民主主義の失敗の具体例は数多くあります。いまの日本もそうかもしれません(それが本書の主張の中心です)。ただ、民主主義の一面的なのっぺりしたものではなく、日本であっても諸外国諸地域または一組織でもその援用は、大概はその援用している集団の慣習、伝統、バイアスなどで多様な色彩をもつようです。

 僕個人は、この民主主義とそれ以外のアルファ要因が重なったものに、民主主義の可能性もあるように感じています。ここらへんは同書で上げられた多くの著作を参考にしながら(大半は読んでますが)、これからも考えていたい論点です。

日本をダメにしたB層の研究

日本をダメにしたB層の研究