関東大震災当時の失業調査と物価、雇用データ

 『明治以降 本邦主要経済統計』(日本銀行統計局)を利用して、関東大震災のときを中心にいくつかデータをみてみたい。あくまでもこの本から拾ったものであり最近の研究や再推計などは対象外である。

 まず関東大震災による国富への被害は、当時の単位で東京府が約37億円(商品<在庫含む>が約17億円、建物が11億円など)で筆頭であり、そのほかの地域を含めると約55億円になる。皇室財産の被害額抜かすと約52億円。
 当時の国富総額が大正8年(1919年)調査の国富(皇室財産などを抜かす)と時価で約900億円だったので約6%の被害だったことがわかる。当時の国民所得は1923年の名目GNPが140億ほど、実質GNPが118億円ほど(大川推計)。

GDPデフレーターでみると1919年のいわゆる「大正バブル」の崩壊以後は以下のようになる。
1917年ー33年までのGDPデフレーター
 
これをみると震災以降、翌年は震災復興で一時的にデフレーターは上昇したが、あとはデフレ的傾向が増している。また消費者物価指数も同様の動きである。

 

雇用は、当時の就業者数総数は2千7百万人程度(1920年大正9年))。第一次産業(農業、漁業など)の占める割合は50%以上。第二次産業(鉱業、建設業、製造業)が20%、第3次産業(卸売、金融、サービスなど)が25%超の比率である。生産に占めるウェイトは、1923年当時、22%、28%、約50%となる。農業は圧倒的に多くの就業人口を吸収していたが、他方で経済に占める生産のウェイトは減少していた。

 ところで福田徳三は浅草十二階が半倒壊していてそれを爆破したように震災復興をすすめるべきだとした。また無残な丸善の建物を日本の文明の中途半端な導入だと考えてもいた。

下の画像は関東大震災で被害をうけた丸善、浅草十二階。


 
 さて福田徳三は「失業調査と其に基づく若干の推定」というものを公表している。当時は失業統計がきわめて不備であった。もちろん被災調査も不十分であった。福田は学生たちを動員して失業調査を行った。国税調査をもとにした当時の東京市の人口は大正9年10月時点で217万人ほど。震災当日の人口を福田は234万人ほどと推計している。このうち有業者数(職業を有する者)を97万人超、無業者(職業を有せざる者)を137万人ほどと予想した。そして罹災率を各種調査から64%ほどと推測して、震災のために職業を失った総数を導出すると63万人超に上った。

 福田はピグーやローントリーの失業概念(「平時の失業」)とは異なる震災独特の失業概念を抱いていた(ここ参照)。福田はまた失業調査を、東京市営のバラックで行った(日比谷、竹の臺、池端、明治神宮外苑、月島、芝離宮、九段上、テント町といわれた馬場先の9か所、3万7千人に対して行う。11月2日より10日間(日曜除く)。

 調査はボランティアの学生を使い、世帯票(世帯の従来、現在の生計費、希望本業・副業の種類を男女を明記して記入)、個人票(年齢、従来・現在の本業<勤務時間、賃金の形態別(時間給、出来高給)月収、地位<業主、職員、労働者>など>、従来・現在の副業、希望の副業(種類、時間、収入など))を配布して聞きとり調査をした。

調査から福田が得たものは以下の通り。

 1)バラックに居住した被災者のうち以前と同じ業務に復帰したものは全体の3.8割程度、しかし男女比でみると、男は4割だが、女の割合はきわめて低く2割。

 2)回収された調査票から、全体の失業者は6割超で、そのうち3.4割が完全失業者、2.8割は不完全失業者。この不完全失業者とは、福田の言葉の「転業者」というカテゴリーを示す。例えば副業を本業にするもの、あるいは旋盤工が焼け跡の片付けをしているものなど。また男女の違いでいうと、女性の完全失業者の割合が非常に大きい(男2割、女6割)(2089頁)。

 3)福田の推計では、罹災した有業者総数に対する完全失業者の比率は34%超であり、その人数は11万2千人以上であった。ところでこれは「直接失業者」であると福田はいう。さらにこの人たちに扶養されている人を「間接失業者」として一人当たり1.75人扶養しているとすると、直接・間接失業者の総数は三十万六千人。この人数を福田は「狭義の失業者」とする。

 4)先の転業者のように「広義の失業者」を福田は考えていた。
 「今現に何か職業を持つて居るが、それは災前の職業其のものでなく、多くは已むを得ず臨時手当任せに有り付いた職業を営んで居るもの、これを転業者と名付けた。雑貨屋の主人がスイトン屋になったり、旋盤工が焼跡片付け人夫になったり、会社の社長が絵はがき屋になったり、其例は沢山ある」2013頁。

 この「転業者」は、潜在的失業者ともいえ、その総数は9万2千人になると福田は推測した。

 5)さらに「広義の失業者」には、「災前には何等の職業を有して居なかったもので今も尚職業を有つて居らぬが、それでは生きていかれないから、何か身に相応した職業」を得ようとする新求職者が含まれる。これも潜在的な失業者に陥いる可能性があり、その総数は5万5千人と推測した。ただし福田は避難の態様(郊外の避難者や親せきへの避難者がいるので減少要因となる)を考慮すると十万人ほどが実数ではないかと考えた。

 6)「転業者」と「新求職者」も扶養する人を潜在的な間接失業者として換算すると、直接・間接失業者はあわせると二十七万二千五百人になる

 7)「狭義の失業者」と「広義の失業者」のそれぞれの直接・間接失業者すべてあわせると五十七万八千五百人になる。これが福田によれば生計困難者である。東京市の人口を福田は234万人と推計していたので、その比率は全体の24.7%となった。つまり東京市の4人に一人が震災による生活が危機にさらされている人たちであった

 復興事業の第一はこの総数を念頭においた復興策である必要がある、と福田は主張した。そしてただ単に職を与えるのではなく、失業者の保有する「無形の資本」、つまり人的資本を大切にし、彼らの技能や適性に応じた職業機会を与えるべきである、というのが福田の結論。