経済政策で人は死ぬか?の経済学

 政府や中央銀行が政策を誤ると不況からなかなか脱出できない、ということは経済学を知らなくても常識でわかる範囲ではないだろうか。他方で職を失うことによって精神的なストレスを抱き、あるいは経済的な不安から自死に至ることもまた常識的な発想の枠内だったろう。だが、このふたつの「常識」を結びつけて、さらに学術的な視点で検討がなされてきたことは、実は最近までほとんどなかった。

 経済政策が失敗することで不況が継続し、それが自殺者の増加など国民の「死」を直接もたらしてしまう。この“最新の”経済学の考察を紹介していこう。

 ところで日本の自殺者数の推移をみておこう。最新の数字でも2015年10月末で二万人を超えてるが、それでも今年度は九〇年代前半の水準に戻る可能性が濃厚である。つまり長期停滞以前の水準に回帰するはずだ。97年は日本の金融危機と消費増税があった年だが、それ以降急増していき、2011年まで11年連続して3万人台であり、ピーク年では3万五千人近かった。自殺未遂した人や自殺しようかと悩んだ人たちまで含めると膨大な数に及ぶに違いない。

 経済の安定化に失敗するとそれだけで多くの人命が失われてしまう。長期停滞を背景にして、日本の自殺者数と失業率の関係については21世紀初頭から議論されてきた。つまり冒頭で書いたように、経済政策の失敗が自殺者数の増減に密接に関係するという認識である。たしかに「自殺は景気ではなくもっと複雑な理由による」という見方は正しい。

ひとが様々な理由で生死を選択しているのには異論はない。しかしそれを認めたうえでも、自殺と景気循環(好況と不況の循環のこと)がきわめて密接な関係にあることは矛盾しない。最近では、リーマンショック以降の各国の動向を踏まえて、経済政策の失敗が人間の生き死にを直接に左右するという分析を、デヴィッド・スタックラーとサンジェイ・バスが『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)で提示している。原題を直訳すると「生身の経済学 なぜ緊縮は殺すのか」というものだ。「生身」を強調することで、現実に人間たちの生命にかかわることだという点を強調している。なによりも実は著者二名は経済学者ではない。イギリスの公衆衛生学の専門家だ。彼らの問題意識は、医療や社会福祉(公衆衛生含む)に経済政策がどのような影響を及ぼすのかだ。

 スタックラーとバスの重要な指摘は、不況そのものよりも、そのときに経済政策が失敗(緊縮政策の採用)することで国民を殺してしまうということだ。彼らは不況そのものは健康という視点からは、いい面と悪い面があるという。不況になれば贅沢な暴飲暴食を控え、アルコール摂取が低下することで健康に貢献するという。また自動車の使用量が減るために交通事故死も減少する。だが他方で交通事故死亡が減少することで臓器提供者が減るとも指摘している。ここらへんの徹底した考察は興味深い。

 もちろん悪影響ははるかに重要だ。例えば不況になれば失業者が発生する。このとき政府や中央銀行が適切に対処しなければ、失業の増加が自殺者の増加を招いてしまうだろう。

 日本の場合では、失業率が高まるとそれに応じるかのように自殺者数も増加していき、また失業率が低下すると自殺者数も低下していく。この関係を専門用語で「正の相関」という。最近出版した、僕が編集した『「30万人都市」が日本を救う!』(藤原書店)でも経済学者の飯田泰之さんやタレントの麻木久仁子さんと議論したが、仕事を奪われることによる社会的地位の喪失を(女性より)男性しかも中高年がうけややすいといわれている。実際にも日本の失業率が増加すると中高年の男性が自死を選択するケースが激増する。

 スタックラーとバスたちの本では、2008年のリーマンショックで仕事を失ったイタリアの中高年の男性職人が「仕事ができない」ということを理由に自殺したエピソードを紹介している。つまりここでのポイントは、経済的な理由よりも地位や職の喪失そのものが自殺の引き金になっていることだ。

 また精神疾患患者数の推移や人工妊娠中絶率(特に若年層)と景気の関係に対する議論もある。 失業とうつ病は関係が深い。先ほどの社会的地位の喪失もうつ病の引き金になりやすい。うつ病が進行しての自殺のケースも多いだろう。また失業率の上昇は、他面でリストラに直面しなかった人たちにも生命の危機をもたらす。 首切りを免れて、会社に残った人たちの時間当たりの労働強度を高めてしまう。つまりやめたり、新規の採用がなかったりした分だけより少ない人数で仕事をすることになる。過労によるストレスがうつ病の引き金をひいてしまう。これもまた経済政策の失敗が真因だ。

 人工妊娠中絶実施率については試論の段階だが、女性の20歳未満、20〜24歳の年齢階層と失業率が関係がありそうだ。景気がよくなると中絶実施率は上昇し、悪くなると低下する。この関係を「負の相関」とよんでいる。例えば中絶の選択が経済的理由でできなかった女性たちが、その後、十分な所得を得ることができないままでいると、それは「子どもの貧困」などにも発展していくだろう。ちなみに人工中絶を推奨しているのではなくあくまで客観的な指摘なのでご留意いただきたい。

 経済政策の失敗の典型は、不況のど真ん中やあるいは十分に回復していない段階での増税だ。先ほどのスタックラーとバスはこう指摘する。リーマンショック以後のイギリス政府は、当初は積極的な景気刺激策で雇用増加、自殺減少に貢献したにもかかわらず、それを一年でやめ、日本でいうところの消費増税や公務員の人件費カットなど「緊縮策」を採用したことで失業は増え、自殺は増加したとしている。

 日本でも97年の消費増税のショックは大きくその後の長期停滞の引き金になっている。そして自殺者など国民の多くの生命を犠牲にした。現状では、日本の自殺者が急減しているのは、自殺対策に財政的な支援を拡大したこと、そして失業を低下させる景気対策が採用されたためである。ただし現状での消費税増税はイギリスと同じく「緊縮政策」として国民の生命を危険にさらしているといえるだろう。

経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策

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