日本では首相と中央銀行(日本銀行)総裁が会うことも難しい

菅首相と白川総裁、会談先送りの方向=電話協議案浮上、日銀の独立性考慮
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010082000921

とのことだ。マクロ経済政策がどうこうという以前に、これは単に事実上の「二重政府」状態である。しばしば指摘されているが、日本銀行はいかなる政策を行っても事実上、自ら目的を(政府とは独立に)定め、そしてその帰結について国会で報告する義務もなければ、また責任を事実上負うこともない。日本銀行の政策当事者たち(国会が承認する人たちの数倍の数が政策決定の場に参加し、委員たち以上に発言しているのは記録からも自明である)は、簡単にいえばやりたい放題である。

今回、直接会うとなぜか「日銀の独立性」を犯し、電話だと犯さない可能性があるという。これは端的にめちゃめちゃな論理である。適切な政府のガバナンスが機能していない法律の欠陥ともいえるが、ここまで極端なケースはさすがに政策当事者ー首相と総裁の現在のキャラクターに依存していると、と批判されてもしかたがないだろう。官僚の詭弁では、「法律が認めているので仕方がない。国民が賛成している証拠であり、この事態は民主主義が認めているものだ」というものがある。これは日本銀行の役員たちが公然の場ではいわないが、非公然の場ではしばしば口にしていることと同じである。もちろん政府と日銀が直接会うよりも電話で会う方が望ましいなどとは法律に書いているわけもないのだが、そういうためにする議論が横行するのが官僚的(日銀的)世界である。

ためにする議論(なにもしないで現状維持を追認させる論理)とは異なり、政府と日本銀行が直接に会うことがなぜ独立性を損ねるのか意味がわからない。直接に会うとマスコミが騒ぐからか? 騒ぐといっても報道するだけではないか? だが、では「日本銀行の独立性」の前ではマスコミや世論さえも発言自体を制約すべきなのか? 実際にそういう発言を公然という日銀政策委員さえもいることはこのブログでも指摘した。ある意味で、民主主義を超越しているともいえる。

ちなみにこれだけの不況の中でさえ、政府と日本銀行が定期的に協議する場は、口約束以外にいまは事実上存在しない。やはりこの政権は本格的な不況政権とやがて変貌する可能性が大きいのではないか。

また記事にある「日本銀行の独立性」とは異なり、日本銀行の行動の根拠は日本銀行法にあり、それは憲法(民主主義、国民やメディアの報道の自由言論の自由)を超越するものではまったくない。またその独立性は、あくまで国民経済の安定のために認められた政策手段の選択のための自由でしかない。政策目的については、政府との協調、否、事実上、政府に服するべき可能性も現行法では排除されていない。もし政府が日本銀行とは異なる原理で動いていいのならば、なおかつ世論やマスコミの発言の可能性を事実上抑制することを意図して行動するのならば、それは冒頭でもいった二重政府そのものだろう。ちなみにこのような政府とは独立した権力が与えられ、それが暴走しても、官僚たちは詭弁をろうし、現状維持こそ民主主義である、という歪んだ法解釈を繰り返すだろう。ネットやさまざまな非公然の会合においてさえも。

しかし本当に日本銀行関東軍そのものだ。ただ問題のありかが世の中にもよりはっきりしてきたのはいいことかもしれない。