FD (Faculty Development) ってただの時間の浪費ではないのか?


 ネットを検索すると各大学でこの種の取組みをやっていて、授業改革や地域貢献やら少人数教育やらの研究会が報告されている。たぶんこれは大学の外部評価に対応してのものだろうが、しかし各大学での取り組みが本当になんらかの効果を持っているのだろうか? ほとんどが報告書と実績(だいたいは多人数をむやみに出席させての会合の開催)を顕示することが自己目的化してしまっているのではないか。


 例えばある大学では、分野のちがう研究者・事務職員を一部屋に半日集めて、そこで各研究者が自分の研究分野について報告するのをもってFD (Faculty Development) 活動としている。簡単にいうと業務命令による研究報告といえる。しかし、専門がちがうことで、なにを能力改善しているかお互いがわからないのが一般的ではないだろうか。


 そしてただたんにFD (Faculty Development) をやればいい、ということでどうも各大学の取り組みが行われている感が強い。一々大学名をあげないが(なぜなら広汎に行われているので)検索すれば、その無味乾燥な官僚的文書の集積に驚くことだろう(もちろん当事者たちは自己目的化しているなどと決して思っていないだろう)。


 研究も教育も先の斉藤誠論説http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070709#p4での主張がアルファでありオメガであり、ただの集団的みそぎにもにた日本型FD (Faculty Development) はやめるべきであろう。斉藤論説もひょっとしたら最近のこの種の動向を念頭においてのことかもしれない。この種の批判は、孤独なものであり(なぜなら同僚教員の賛意は得にくい 長いものにはまかれとけということだからだ。もちろんこの“無駄”のコストを負担するのは最終的に学生とその学費負担者なのだが)、その意味で斉藤論説の無頼ぶりに妙な感銘を覚えてしまう。


 実際にはFD (Faculty Development) への無理解が僕にあるかもしれないが、ここらへんはもし何かご意見があればお聞きしたい。教育も研究も集団作業よりもむしろ孤独な作業であろう。集団的な改善の試みは行われるにしても、学生の授業評価また受験生の動態(人数の動向)という相対評価と市場原理によって大学のさまざまな質は十分評価されていると僕は思うのだが。つまり文科省の管轄の大学基準協会のような組織のお仕事(外部評価)のために、教育・研究資源が割かれるのは本末転倒ではないか? と思うのだ。


 なおFDもどきの話は大学業界には無数にある。ほとんどが00年代に勢いをましていて、これは文科省行政の聖域化という00年代の動きと無縁ではないだろう。この点は、文科省の産業政策的発想を批判した青木昌彦氏の以下の本に収録された諸エッセイや、中条潮氏の批判がある。