日銀を見るもうひとつの視点:粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる』


 日本の現存する書くものが商品になる数少ない編集者の回顧談。コネタ満載。ただしコネタすぎて散漫な面もある。



 興味を引いたのは笠信太郎吉田満のエピソード。


昭和30年ごろは『中央公論』的には笠と谷崎潤一郎が著述の双璧をなすステイタス。大宅壮一が「香港フラワー」(やすっぽい造花の意味)と批判したらしい。なかなか味なw。


吉田満(『戦艦大和ノ最期』で著名、日銀マンでもあった)の日銀での評価。キャリア組から疎まれた。粕谷は『鎮魂 吉田満とその時代』を書くために日銀を取材する課程で、日銀の腐敗した体質に嫌気をさして連載を中断してしまう! 以下の引用には、まさに日銀の体質のみならず、日銀の反省なき政策スタンスの源流さえも伺えるのではないか。


「日銀の取材の最中に、あるキャリア組が「過去は過去だ。今は今だ。吉田満のように過去にこだわってたら生きていかれないじゃないか」とはき捨てるように言い放った。この戦争の捉え方は最も軽薄だと思う・かって戦ったということの意味をなるべく忘れたい。戦後の日本では、その典型がエリート中のエリートである日銀行員のなかに存在していた。これが私には何よりもショックだった」(本書、228−9)。


 どうも粕谷氏の取材の課程で吉田氏に対する日銀キャリア組の陰湿ないやがらせのエピソード(「日銀はばかなことをやっているんだよ」)を豊富に見聞されたようである。


 ともかくこの日銀キャリアの引用中の発言はある意味興味深い。「戦争」を「過去の政策の失敗」におきかえてもいいだろう。いや、政策の失敗自体が過去を忘却するという姿勢の前ではそもそも最初からありえないわけだが……。まさに究極のニヒリズムか。