若田部昌澄の人と仕事

この草稿は、石橋湛山賞を若田部昌澄さんが受賞したのを機会に『自由思想』という雑誌に書いたものです。以前、その一部をブログでも掲載しましたが、今回は日銀副総裁就任を機会にして、草稿全文を掲載します。これ以後の評価については人柄への信頼は変わらないどころか増えるだけです。もっとも個人的に信頼できるリフレ派のひとりです。繰り返しますが、日銀副総裁の職務は、外野ではわからない苦労もあるでしょうが、ぜひ勤めを果たされることを期待します。

 

若田部昌澄さんの人と仕事

田中秀臣

1 はじめに

 「日本経済が実際にどういう状態にあるのか、あるいは病態にあるのかという臨床的研究」には、「少なくとも10年の経験が必要」だ、とかって高橋亀吉は語った 。日本の実践的なエコノミストの第一人者であり、そのパイオニアであった人物の言葉として、独自の重みを持っている。僕の記憶が間違いでなければ、若田部昌澄さんの今回の受賞対象となった『危機の経済政策』は、その日本経済の臨床研究10年の成果として世に問われたといっていい。高橋亀吉のような酸いも甘いも経験した熟練の臨床医からみれば、10年選手はようやくインターンから専門医となったばかりの若手だろう。だが、昭和恐慌期に10年のインターンを経験した高橋がそうであったように、僕たちのこの10年もまた平成大停滞という未曽有の困難の中での10年であり、その経験は単に年数だけで評価することは難しいだろう。
 僕と若田部さんとの付き合いは長いものでもう四半世紀近くになる。つまりいまや注目すべき日本経済の臨床医として活動を続けるこの10年間だけでなく、さらにそのはるか前から、僕は個人的に身近で、若田部さんの人柄と仕事の方向性を見ることができたのである。ここではそんな得難い経験のいくばくかを記しておきたい。

2 知識の経済学を求めて

 若田部さんは早稲田大学の博士課程に入学後、93年からトロント大学経済学大学院の博士課程に入学し、そこで経済学史研究の世界的権威であるサミュエル・ホランダー教授の薫陶を享けた。この時代に若田部さんに今日の研究方向、そして後の政策問題に対するい本的な視点が形成されたと思う。ホランダー教授の指導の下で、若田部さんが取り組んでいたのが、カナダの経済学者ジョン・レーであった。レーは19世紀前半に活躍し、主著『政治経済学新原理』(1834)で、オーストリア学派の資本理論の先駆を主張したことで一般には知られている。若田部さんはこのレーを相手にして、実に詳細な史料検証、当時の政治的・文化的な時代背景を含めて考察を重ね、やがて従来のレーの解釈とは異なる視点を打ち出すことに成功した。それは「知識に基づく成長モデル」としてレーの経済学体系をとらえる見方である。
 成長を長期的に可能にするものとして「知識」Knowledgeの役割は重要である。現代の経済成長理論や経済発展論の多くは「知識」の役割を、企業や組織の内生的な行動の結果としてモデル化する方向にある。若田部さんのレー解釈も、この経済諸変数の内部で決定された知識に基づく経済成長モデルの先駆者として、レーの貢献をとらえ直すという野心的なものだった。このような「知識」への注目は、学部生時代からのアダム・スミスの分業論や株式会社論などへの注目から自然と生まれたのかもしれない。
 「知識」が経済発展にどのようにかかわるのか。これはまさに現代経済学の最重要なテーマだろう。と、同時に、若田部さんはこの知識の問題が、経済政策の次元において非常に複雑な課題として存在し、同時に知識の問題こそが日本の経済が停滞を続ける桎梏であることに気がついたのだと思う。
 トロント大学から帰国後、若田部さんは早稲田大学政治経済学部の専任講師に就任された。97年のことである。大学の教員ならば誰でもそうだろうが、講師になって間もない頃は講義の準備に大半の精力をそがれてしまう。講義にも知識だけではなく、経験が必要なのだ。しばらくは若田部さんも試行錯誤されていたことと思う。だが、この学生への教授においても若田部さんは、やはり「知識」の問題を非常に重視し、その独自の貢献を明らかにしていった。特に入門段階にある学生たちに、いかに効率的にまたわかりやすく、経済学の基礎知識を身に着かせるか。経済学教育が、若田部さんの知識の経済学の重要な柱になったのは、ある意味で必然でもあった。その成果は、しばらくして政治経済学部(現在の政治経済学術院)の同僚たちと編纂した『経済学入門』(2000、再版2007)になって結実する。
 経済学教育を重視するという立場は、もちろん若田部さんの「知識」を経済発展の中核だと認識する立場から自然と導かれたものである。と同時に、早稲田大学政治経済学部の礎を築き、石橋湛山にも深い影響を与えた天野為之が、また経済学教育を極めて重視したことを想起しないではおれない。もし「早稲田派エコノミスト」なるものが存在するならば、その大きな特徴は、経済学教育の重視にあると思われるからだ。その意味では、若田部さんが意識するとしないとにかかわらず、早稲田大学が育んだなんらかの「知(識)」の伝統が脈々と、彼にも注がれていたのかもしれない。

3 知識と利害の相互依存―日本の大停滞を前にー

 国際的な貢献を行った経済学史の専門家、そしてよく練られた経済学教育の提供者―これが90年代に若田部さんが成し遂げたことだ。そこには「知識」が経済発展に大きくかかわるという認識がベースにあることはみた。
 時代はしかし単なるアカデミズムの人として若田部さんを押しとどめてはいなかった。新世紀、政策論争の季節が到来したのである。なぜ若田部さんは政策論争に参加したのだろうか。それは主にふたつの理由による。ひとつは、トロント大学留学時代に、ディヴィッド・レイドラー教授に学んだことが大きい。若田部さんの言葉を引用しよう。
 「レイドラー教授は、現在のマクロ経済学のあり方に非常に批判的ですが、それも経済学には守るべき伝統があるから、という考え方からです。私も、次第に、自分が守りたいと考える経済学の伝統とは何かを意識するようになりました」 。
 このとき若田部さんの脳裏にあった「自分が守りたいと考える経済学の伝統」とは何か。それは私見では、すでに書いた経済発展や成長にしめる「知識」の役割ではないか。この問題を通じて、現代の経済論争に対することが、レイドラー教授からの教えを生かすことにつながったのではないだろうか。
 もちろん経済論戦に参加するという意欲があるだけではハードルが高い。実際にどの土俵で自らの発言を行うのかが重要になってくる。ここで不思議な偶然が重なる。これには僕個人も大きく関わるのだが、その点は別な機会に書いたのでここでは省略する 。いくつかの出会いを重ねることで、若田部さんもそして僕も、作家の猪瀬直樹さんと出会うことで、まず経済論戦への参加の道が開いたといえる。2000年の終わりのことだ。猪瀬さんを編集長に、若田部さん、僕、そして同じ経済学史研究者仲間でありすでに先行して政策問題を論じていた野口旭さん(専修大学教授)、中村宗悦さん(大東文化大学教授)らを中心として、メールマガジン「日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ」が始まった。ここで若田部さんは、「エコノミックスの考古学」を連載し注目を集めた。やがてこの連載は大幅に加筆修正されて、若田部さんの処女作『経済学者たちの闘い』(2003、東洋経済新報社)となった。
 本書はその年の経済雑誌のベスト上位の評価を与えられ、若田部さんの論壇への登場は高い評価をもって迎えられた。同書は、マンデビィル、ヒューム、スミスらから始まり、その時代時代の政策論争に参加した経済学者たちの主張を、現代の政策課題と比較参照することで、鋭く描いたものだった。僕もこの作品には大きな刺激を受けた。特に、人間の知識とその学習というものは完全ではない。しばしば失敗する。しかし人間は歴史や過去の出来事から教訓を得て、それで知識や学習の不完全性をなんとか克服しようとする。後に『危機の経済政策』の中により明瞭に述べられる、若田部さんの知識の経済学が、『経済学者たちの闘い』にすでに萌芽として現れていた。歴史を教訓として、過去と現在が密度の濃い記述とともに照らし合わされ、読者は日本銀行の政策の失敗が、いまの長期不況を招いたこと、あるいは開発主義や反経済学的なものの持つ問題性を知ることができた。まさに名著の名に恥じないものである。
 若田部さんの経済論壇での活躍は加速していく。その中間点の業績をまとめたのが、『改革の経済学』(2005、ダイヤモンド社)である。また岩田規久男先生(学習院大学教授)、原田泰さん(大和総研チーフエコノミスト)、故岡田靖さん(内閣府経済社会総合研究所主任研究員)らの先輩方を面識を得、それが『昭和恐慌の研究』(2004、東洋経済新報社)に結実する。この共著者にはその年の日経・経済図書文化賞が与えられた。また論壇に流行しているおよそ経済学とはいいえない言説や、また時論を徹底的に批判した『エコノミストミシュラン』(2003、太田出版)を、野口さんと僕と三人で出し、まさに論壇にディープインパクトを与えたのもこのころである。
 そして共著の『経済政策形成の研究』(2007、ナカニシヤ出版)を準備する過程で、若田部さんは、政策形成における知識の問題をより多面的にとらえることになったと思われる。その現段階の集大成が、今回の受賞作である『危機の経済政策』であるだろう。
 若田部さんは、政策形成を評価する際に、従来は利害を中心にみる見解が主流だったとする。だが、歴史上の経済危機とそこにかかわった組織や人物を検証していくと、特定の組織と特定の知識の親和性があることを、若田部さんは指摘している。例えば次のようなケースだ。
 「日本の大停滞の時期には、旧大蔵・財務省財政再建に傾きがちであり、日銀はデフレを貨幣的要因によるものではないと主張するといつたことが起きました。ひとつの可能性としては利害を知識の相互依存的決定です。つまり特定の利害に適合的な知識が選択され、その知識によって特定の利害が認識されるという関係です。それと同時に、そうした知識が制度特有の記憶によって強化されているという側面があります。こうしたときに適切な政策をとるのはきわめて難しくなります」 。
 ここには経済の諸変数(諸利害)によって内生的に決定された悪しき知識が、日本の成長を損ねているその基本原理が記述されている。ここにジョン・レーの研究以来の、若田部さんの基本的見地が集約的に表現されていることは明らかであろう。
 このような悪しき知識がもたらす弊害―平成大停滞―が、「制度特有の記憶」によってさらに強化されるという示唆を書いている。
 この悪しき知識を強化する「制度特有の記憶」を、日本銀行という制度の中であますとこなく解明したのが、最新作の『「日銀デフレ」大不況』(2010、講談社)である。そしてこの書はまた日本の大停滞を憂れい、冷静な筆致で書かれてはいるが、いままでになく苛烈な日本銀行の政策批判の書でもある。かってレイドラー教授から示唆をうけた、若田部さんにとっての「自分が守りたいと考える経済学の伝統」が、本書にははっきりと刻みこまれている。

4 四半世紀の交友、最も信頼できる人

 若田部さんと知り合ってからすでに四半世紀の時がすぎた。初めて会ったとき、若田部さんはまだ学部生であり、僕はまさに掛け値なしの社会に出たての青二才であった。お互いにまだ何者でもなく、また何者にでもなれたかもしれない時に、知り合えたことは、少なくとも僕の人生の幸運のひとつである。ちょっと今回はフォーマルに書きすぎてしまったかもしれない。いままで数限りなく交わされた会話、専門的なものから本当にプライベートなものまで、夜明けまで痛飲してはめをはずしたことも何度もあり、その思い出は尽きることはない。そこで感じた一番のことは、僕の人生の中で最も信頼できる人のひとりだということである。いまから20年ほど前に(まさか当時はFRB議長になるとは想像もつかなかった)バーナンキ大恐慌論文を解読する手助けを若田部さんに求めたことがあった。僕にとっては最強の師でもあり、また気軽に相談できる友人でもある。またいまや日本銀行の政策問題について、いろいろ深い話をするときにも、まっさきに相談するのが若田部さんである。こころ強く、また最も信頼できる人。これだけでは実はまったく言い表せないていないかもしれない。だが、僕らの人生はまだまだ続くだろう。いままでの四半世紀の私的な交友、そして今後の楽しき交流の日々については、いずれまた書くことにしたい。

 

1 高橋亀吉『私の実践経済学』(1976、東洋経済新報社)、207頁。
2 浜田宏一・若田部昌澄・勝間和代『伝説の教授に学べ 本当の経済学がわかる本』(2010、東洋経済新報社)、246頁。
3 田中秀臣「杉原四郎先生と現代経済論戦」(杉原四郎『杉原四郎著作集Ⅲ』月報所収、2006、藤原書店)。
4 若田部昌澄『危機の経済政策』(2009、日本評論社)、272頁。