常見陽平&おおたとしまさ(編著)『アラフォー男子の憂鬱』

 世代論でいえば、僕の所属するだろう50前後の世代は、まず「世代で何かを語る」というインセンティブが極端に乏しいように思える。むしろ昔から、そういう「世代」で群れることや、ましてやともに同世代を語るという動機がきわめて乏しい(とぼくには思える)。しかしどうも10歳以上離れると事情が違うのだろうか。「はじめに」では、アラフォー世代が自分語り(特に世代としての自分語り)をする傾向が強く、また田原総一郎的な「上の世代のギラギラ感」や古市憲寿的な「下の世代の「貧しくても幸せ」的価値観」との対立で、「微妙な感じ」としての世代論を語ろうとしている。このときdecade単位で欠落しているのは、われわれ50前後のアラフィー世代だw。つまりアラフォーが世代としてみなしている集合から、僕の所属しているであろうアラフィーはおそらく「世代」としてみなされていない(速水健朗さんの論説では「ちょいワルオヤジ」世代として一応の反感的w定式化がなされてる)。そして僕のようなアラフィー世代からみると、なんでこの人たちは「世代」を語りたがるのか、実際にはよくわからないことにも通じているのかもしれない。率直にいってたぶん親世代にあたる団塊の世代とすごく似ている。時代や世代を語りたがる心性という点で(笑)。ちなみに「男子」の括りにも注意だ。「男子」はしばしばみっともないほど群れる(これは偏見かもしれないがw)。その意味で男女差もこの本を読むときの興味深い注意点になるだろう。

以下は簡単なメモ。

速水健朗「僕たちはなぜガンダムが好きなのか」…何度も同じものを消費させられる「連環型消費システム」。ガンダム消費はその特性に加えて市場自体が年輪を加えるように増加(この「年輪」という表現は実は速水論説にはない。このガンダム年輪モデルについてはこのエントリー参照)。

第三章の座談のキーポイントは、ユーミンとんねるず(およびドリカム)である。ユーミン型消費はバブル型で僕の世代がその担い手。それに対して素人文化的なとんねるずとドリカムが、アラフォー世代の価値観を作り出したという。しかしとんねるずとドリカムもアラフィー世代に属して、その価値観には違和感はない。むしろ素人的文化というのは、70年代終わりから80年代前半にかけてミスDJやオールナイトフジやおにゃん子などの消費の中で培われていき、その中でとんねるずも(アラフィー世代にも)消費されてきた。ユーミン型消費もしたが、素人土着的消費も同時にしていた、と本書の論を援用するといえるのではないか。
 実は「とんねるず」は僕も秋元康論を準備していたときにとても気になっていろいろ資料をみたが、まるで正体がつかめない不思議な連中だ。その理由は彼らが「なにもない」からなのではないか、というのが暫定的な結論である。その意味では秋元康の別様の化身なのかもしれない。

第5章の座談会はちょっとモラルというか「賢い消費者」みたいな説教ぽい話まででてきて、やはり匂い的には僕らにしばしばお説教をくらわせていた(笑)団塊の世代を想起させる内容になっている。

しかし「とんねるず」は一度まともに取り組むべき問題だ。