株価乱高下の経済学

 『電気と工事』8月号(http://www.ohmsha.co.jp/denkou/)に掲載されたものの元原稿。完全版は同誌を参照ください。

 昨年の秋から5月半ばまで、日本経済は急激に回復していった。その象徴が、株価の高騰、為替レートの円安傾向だ、株価をみるとこの時期で、日経平均株価でみると8千円台から1万6千円がうかがえる水準まで上昇した。為替レートに対ドルでみると1ドル80円ほどから1ドル100円台にのせた。しかし5月後半から様相は一変する。株価は暴落し、1万2千円台後半まで低下し、為替レートも1ドル93円台にまで一時期つけた。おそらくこの原稿が本誌に掲載されるころには、市場も落ち着きを取り戻しているだろうが、それでもこの株と為替レートの乱高下は、日本経済や世界経済について改めて多くの問題があることを反省させるきっかけになったといえるだろう。
 ところで、今回のテーマでは株価の乱高下だけに話をしぼる。株価というのは、簡単にいうとその株券を発行している企業の市場価値を体現するものである。市場価値は、市場において株を取り引きする需要と供給のバランスで決定される。このとき、株を取り引きする人たちは、一応、合理的な人たちであると前提される。「合理的な人」とは、利益と損失のバランスを見極めるだけの情報をすべて有していて、その情報を活用することで、ある行為の利益が損失を上回ればその行為を行い、下回ればそのような行為をしない、という人のことを意味する。
 ところでこのような合理的な人ばかりが株式市場に集まってしまうと、市場を出し抜いて(=自分以外のその他すべての市場参加者を出し抜くという意味)、ある特定の人だけが利益を上げ続けることは難しい。なぜならある株式の潜在的な価値が、現在の市場価値よりも高いとしよう。この情報を得たある人が、この株をより多く購入する(割安な銘柄なためにそうしないわけがない)ことを決めたとする。ところが市場が開けてみると、この株式の潜在的価値と市場価値のかい離は消滅してしまうだろう。なぜなら、その「かい離」情報を市場参加者すべてが共有し、すべての市場参加者がその株式をより多く買おうとするからだ。そうなると株式の市場価値は上昇し、あっという間に「かい離」は消滅する。つまり誰も儲ける事ができないまま終わってしまう。市場を出し抜くことができない。これは市場参加者が等しく合理的な人たちであり、情報を完全に活用していることゆえに生じる現象だ。実際の市場もこの「かい離」(裁定の機会という)があってもやがて消滅することが知られている。
 となるとみんなが同じような行動をするので、株価には大きな変動は生じなくなってしまう。投資家が、特定の株を猛烈に買ったり売ったりしてその株価の市場価値が変動することはない(そんな無茶な行為をしてももうからないので)。株価はマイルドな変化しかしなくなる。
 だが、実際には冒頭で書いたように、株式市場は乱高下を繰り返すことがある。これはどんな原因によるだろうか。合理的な人がいかに自分のもっている情報を完全に活用しても、その情報自体が新しく生じたもので、予想に反するものであれば、意表をつかれるだろう。この予想外の情報(ニュース)によって、株価はしばしば激しく変動する。これを「ランダム・ウォーク仮説」という。「ランダム・ウォーク」とは千鳥足のことで、ふらふらと株価が上下動することを表現している。
 ところで株価の乱高下を説明する理論にはもう一種類ある。それは前提である「合理的な人」を否定するものである。人はしばしば不合理な行動に走る。例えば、イギリスの偉大な経済学者ジョン・メイナード・ケインズが、「美人投票仮説」というものを提唱した。これはみんなが「美人」とみなした女性が、その客観性は度外視して、やはり美人コンテストで優勝するものだ。その合理的な根拠はない。そのときの流行、気分、短視眼的見方などで生じる。
 例えば、世界中で実証されていることだが、雨が降るとその地域の株取引の絶対量が鈍るという現象がしられている。もちろん天気が良かろうが悪かろうが、現在の株式市場に合理的な影響を与えるはずはないだろう。しかし天気が悪いと株式市場は暗い雰囲気になってしまう。まさに気分で左右されているのだ。またこれは冗談みたいだし、どうしてなのかわからないが、一部の専門家は、テレビ番組の「サザエさん」の視聴率が高いと翌日の株価が低下する現象を発見したとしている。また集団心理はきわめて重要な非合理性をもたらす。みんなが株を売りに出しそれがモニター上で下降線として映し出されると、多くの取引関係者はたいして考えもなく自分の持ち株を処分することが多い。
 合理的な人間(ランダム・ウォーク仮説)なのか、非合理的な人間(ケインズ美人投票仮説)なのか、あるいはその両方が現実にみられるのか、はっきりした決着はついていない。個人的には、おおむね、市場は合理的に動くと考えておいてもいいとは思うが。
 仮に合理的な市場だとして、取引関係者が最も利用しやすい情報の中には、企業の個々の業績見込み、期待収益率、日本や世界経済の情勢、そして日本や世界の金融当局(中央銀行や政府)の政策スタンスが大きく関わる。例えば、金融政策のスタンスは市場の動向(乱高下ではなく市場全体のトレンド)を決定する上で大きな力をもつ。冒頭で、昨年の秋からの五月真ん中までの株価上昇に言及したが、これは衆目の一致するところ、日本銀行の金融政策の在り方が大きく変わると市場参加者が合理的に判断した結果だと考えていいだろう。例えば、将来インフレを生じることを日本銀行が確約したとすればどうなるだろうか。例えば、現金、国債、株などのリスク性資産の三つに投資したい人はどう考えるだろうか。現金はインフレが進むとともに価値をその分だけ失う。もし投資家が合理的に判断するならば現金保有はなるべく避けるだろう。国債はどうだろうか? インフレが進むと国債の価格が低下していく(国債利回りは上昇する)。これらインフレの上昇とともに価値を減じていく資産よりも株式がより魅力のある資産にみえるだろう。言い方を変えれば他のリスクが上昇することで、株のリスクが相対的に低下する。そのため株価は上昇トレンドを動くことが“合理的”に推測できる。推測されるとさらにそのトレンドが上書きされる。もちろん「いい」「悪い」ニュースで株価は乱高下するかもしれない。しかしその動きは、金融政策のスタンスがしっかりしていれば、一時的な「調整」で終わる可能性が大きい。
 さて現在の株価の乱高下はどうだろうか? 私見では、日本銀行に一時期雑音があった可能性もあるが、いまはかなり金融政策のスタンスがはっきりしている。もし市場が合理的ならばこの上昇トレンドを描く可能性が強いと思う。もっとも株価を決定するさまざまな経済情報が同時に上向いていくことも必要だ。例えば、最も重要な指標は、人々が日本銀行がインフレを起こすという行動を信認しているかどうかを示す指標(期待インフレ率)が着実に上昇しているか、あるいは「実体経済」の指標―成長率、鉱工業生産指数、消費、設備投資、失業率や有効求人倍率、そして物価動向そのものが改善しているかどうかは、合理的な人たちの情報を補強し、その金融政策のスタンスへの理解を深めていくだろう。いまの乱高下はその理解を深めるための大きなステップだと、僕は思っているんだが、その判断が正しいかどうかはまだしばらく注意が必要だ。