なぜそんなに公共事業(財政政策のたかだかひとつの形態)にこだわるんだろうか?

 昨日のTwitterでのつぶやきのまとめです。

公共事業を「防災」「人殺し防止」「公立病院も公共事業」というのはどうぞご自由にだと思う。所詮、個々の話題であり、それらは効率的な基準とそのほかの社会的価値判断とのバランスの中で判定されていくだろう。ただし、それらの(自分勝手な定義の拡張含む)「公共事業」の膨張では、デフレ脱却は不可能。
 ところで「公共事業」の定義をどんどん拡張し、他方では震災などを契機に「防災」や「リスク」が無制限な恐怖心と不確実性を武器に拡張している。この「公共事業」の無制限の拡張は、自民党政権もやってたが、もちろん民主党政権もお手のもの。証拠⇒http://www5.cao.go.jp/npc/unei/jigyou/qanda.pdf

こう書くと、すぐに出てくる反知性的な反応は、「田中は公共事業に否定的だ」というもの。笑。本当に10数年やってて、大変だなあ、と思うのは、政策の割り当てとほどほどの効率性基準の援用に対する理解がなく、ゼロかすべてかの選択や、政策目的と政策手段のマッチへの理解の乏しさ。

たとえば、10数年前のデビュー作『構造改革論の誤解』では、その政策の割り当てを中心にした著作。1)日本の停滞は金融政策のスタンスが原因、2)1)から構造改革をやっても停滞は打破できない、3)構造改革にはそれに合った目的がある、というもの(効率性の追求)。これが政策の割り当て。

 ところ、だいたいは先の2)の「構造改革は…できない」という部分に過剰反応が多く、構造改革否定論者として理解され、それに賛成か反対の両極端の意見がつくのが大半だった。「政策にはそれに適合した目的に使うべし」といっただけで、なにも全部がいい、全部が悪いなんて議論じゃないんだが。

 主にネットでだが今朝の「バラマキという言葉の独り歩き」ということを書くと、昨今の「公共事業はバラマキという批判はおかしい」という“流行”のため、すぐにリツイート多数。しかしいまの比較にならないぐらい重要な政策の割り当てのツイートへは反応低レベル。それが僕が10数年直面している現実。

 実は政策の割り当て自体は、経済学以前の知的な常識程度なんだが、人気のプロパガンダにはなかなか勝てない。だって「政策=道具には、それに合った使い道=目的がある」というだけなんだが。すべての問題解決の希望を郵政民営化民主党政権交代や、国土強靭化や消費税増税に求める。手ごわい。

これに関連した論説をひとつ紹介。

リフレーションに関連する海外記事および論文集 - エガートソン「財政乗数と政策協調」NY連銀スタッフレポート 2006 #atwikihttp://www29.atwiki.jp/nightintunisia/pages/15.html

 公共事業の各年度の支出に異様にこだわる日本の財政政策の限界を先のエガートソンの論文は90年代の日本の財政政策のの経験として紹介している。それを打ち破るのは、将来にコミットした(=恒常的な)財政支出(減税や公共支出で特段の差異はない)と金融政策の協調だ、というのがエガートソンの提起

 ちなみに公共事業が雇用をダイレクトに増やせるから、という反論があるが、それも上記のエガートソン論文などでリジェクトされる。また(金融政策との協調が行われれば)公共事業だけではなく、減税も効果があるし、また公務員を直接増やす公的雇用の方が直接に雇用を増加させることができる。特に日本は韓国と並び異様に公的雇用のウェイトが少ない国(それだけ公共事業に傾斜しすぎている)ので、公的雇用を有用なサービス(医療、福祉、環境、治安、防衛など)で増やすことは重要だろう。この点については拙著『雇用大崩壊』でも強調した。

雇用大崩壊―失業率10%時代の到来 (生活人新書)

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