財政政策でデフレ・ギャップは埋まるか?(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編著『エコノミストミシュラン』より)

 藤井聡氏のこの発言を読んで、デフレ・ギャップは財政政策で埋まるのか、という問題について、2003年の我々の著作から野口旭さんの発言を引いておく。

 野口旭:財政派に対する不満をもうひとつ指摘すると、彼らももちろんデフレギャップを重視するわけですが、それがなぜここまで拡大し続けてきたかに対する認識が決定的に甘いと思います。リチャード・クーは、資産デフレで企業のバランスシートが悪化して、企業が投資をせずに借金返済にばかり走っているからデフレギャップが開くんだと主張しています。でも、資産デフレによるバランスシートだけの問題なら、企業がこれだけ調整を積み重ねるなかで、デフレギャップがこのようにどんどん拡大し続けるはずはない。先ほどのバーナンキクルーグマンの見方では、デフレギャップは90年代後半のほうが前半よりもむしろ大きくなっている。バブル崩壊の後始末としての過剰債務処理なら、そんなのは97年くらいでとっくに済んでいる。にもかかわらずデフレ・ギャップがその後も拡大し続けるのは、デフレ経済への本格的な移行のなかで、デフレ期待がどんどん高まっていったからです。投資を手控え、借金を返済し、キャッシュ・フローを積み重ねるという行動を、企業がその後ますます強めていったのは、このデフレ期待のためです。
 だから、とにかく政府が財政支出で需要を支え続けて、企業のバランスシートがきれいになるまで待てばいいという、リチャード・クー流の待ちの戦略ではダメなんです。というのは、いくらバランスシートを改善しても、デフレ期待が続く限り、企業は投資をしませんし、家計は消費をしませんから。そして、人々が支出を拡大させない限り、政府は財政赤字をもって膨大なデフレギャップを永遠に埋め続けなければならなくなる。しかし、小渕内閣のあの超拡張財政をもってしても、結局デフレは止まらなかったわけですから、要するにデフレギャップは完全には埋まらなかったのです。われわれのような金融派が、インフレ目標政策のような金融政策によっつて、人々のデフレ期待そのものを壊してしまわない限り、自律的な成長経路には決して復帰できないだろうといっているのは、そのためです(『エコノミストミシュラン』93頁)。

 『エコノミストミシュラン』が出版されたのは03年であるが、その後も日本の「緩やかな小幅のデフレの持続」は続いている。この基本にはデフレ期待を定着させてしまう日本銀行の金融政策のスタンスがあると我々は考えている。

 今日の藤井聡氏の前述のインタビューに代表される「財政政策でデフレギャップを埋める」という財政政策中心的発想は、このデフレとデフレ期待の20年近い継続について事実上まったく関与していない。それが財政政策中心主義と、我々いわゆるリフレ派との違いだといえるだろう。今日的な文脈でいえば、自民党などの国土強靭化計画で10年で200兆円を使おうが(ちなみに90年代は7年で120兆使ったがデフレは継続)、デフレ期待の払拭(そのためには金融政策のスタンスの転換がキー)がないかぎり、経済が中長期的に再び失速を繰り返すと私は考えている。

 なお、財政政策に対する一般的な見解は、このエントリーを参照されたい。

 またある種の財政政策(それは金融政策のスタンスの変更を伴うものや、恒久的な財政政策の転換を伴うものなど)では、デフレ期待の転換が可能であると考えるが、そのいくつかの手法については、このエントリーを参照のこと。

エコノミスト・ミシュラン

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