政府の財政政策を考えるキーポイント

 民主党の経済政策を考えるキーポイントになると思うので以下をコピペ。これは『構造改革論の誤解』の野口旭さんの書かれたパートである。01年のものだが今日でもほとんど通用する。01年当時と現在の経済状況の類似性を踏まえたうえで、民主党と小泉自民党の差異を考える上でも、いまも最優先で読んでほしい本のひとつ。だとひそかに願っている。念のため今日でも特に参考になるところは赤字表記してみた。

■財政政策の何が問題か
 さらに問題だったのは、その膨大な財政支出の多くが、国民の大多数にとってみれば無駄という以外にはない形で用いられ続けてきたことである。それは、国民の多くが日常的に実感していることである。橋本政権以降、景気が少しよくなると必ず「財政再建」を求める声が強まり、それが有権者の一定の支持を集めるのは、財政支出の非効率性、不公平性に対する、この国民全体の強い苛立ちの現れとも考えられる。しかし、財政支出のあり方が国民各層の不満の対象になるのは、政府財政というもののいわば「宿命」でもある。
 財政支出の配分には、常に政治的なプロセスがつきまとう。それは、財政とは国民各層の利害の再配分にほかならないからである。再配分である以上、どのように民主的な手続きを経たとしても、過分な分け前を享受する層と、「搾り取られるだけ」の層が現れる。そして一般には、政治家に影響力を持つ利益集団、業界団体、および圧力団体や、予算配分の多くを事実上支配する官僚機構と強い結びつきを持つ特殊法人公益法人およびそのファミリー企業が、その政府予算のゼロ・サム的奪いあいにおける「勝ち組」になる。政府支出が景気対策としての「公共事業」を中心として行われる場合、この政治力学的なバイアスはより一層顕著になる。
 こうした財政の過度な利権バイアスを是正することの必要性は、これまでにも多くの専門家によって指摘されてきたし、遅々ながらもその努力はなされてきた。公共事業中心の景気対策からの脱却は、近年の大きな政治的テーマとさえなっている。長野県の「脱ダム宣言」に象徴されるように、地方自治体の中でもそうした動きは急である。小泉政権が先鞭をつけた特殊法人公益法人改革も、財政投融資制度を含めた財政構造改革の一環という側面を持つ。
 こうした「利権」と直接に結びついた財政支出の弊害は明白であり、それが是正されるべきなのは当然である。しかしそれならば、「弱者」に対する財政支出、例えば零細企業保護、衰退産業保護、地域経済保護のための財政支援には問題がないのだろうか。というのは、「失われた一〇年」の中で最も大きく肥大化したのは、むしろこちらの方だからである。公共事業一つをとってみても、それが建設業界や族議員の「利権」の現れなのか、それとも不況の中で衰退する地域経済への支援なのかを明確に区分するのは、実際にはきわめて難しいのである。 九〇年代のように多くの産業や地域が経済的に疲弊する中では、政府がその「痛み」を緩和するために一定の財政支援を行うのは、少なくとも社会的な公正の確保という点では当然である。しかし、純経済学的には、それは必ずしも望ましい政策とはいえない。というのは、第1章の図1-1によって説明したように、衰退産業への政府による永続的な支援は、労働や資本の産業間移動のインセンティブを失わせ、社会的非効率性を固定化させることにつながるからである。その意味では、「政府財政への過度な依存が構造改革を遅らせてきた」という構造改革主義的な主張は、一面の真理を含んでいる。 しかし、それはたかだか、一面の真理でしかない。というのは、その主張は、「そもそも日本はなぜ九〇年代にかくも巨額の財政支出を強いられたのか」という、政府依存の根本原因に対する政治経済学的な考察をまったく欠いているからである。
■何が「政府依存」をもたらしたのか
 日本の財政支出は、その社会的便益への効果という点では、確かに大きな問題をはらんでいる。しかし、他の政策的選択肢を所与として考えた場合、日本が九〇年代にマクロ政策としての財政政策に過度に依存する以外することになったのは、ある意味ではやむをえなかったともいえる。
 現代の民主主義国家は、経済的には福祉国家あるいは混合経済国家である。そこでは、政府が国民の経済生活に一定の責任を持つことは、きわめて当然であると考えられている。マクロ政策としての財政政策によって、循環的な要因によって生じる失業や倒産をできるだけ少なくすることは、政府のみがなしうるその重大な機能である。政府はその一方で、やむを得ざる失業や倒産に対するセーフティネットを構築し、そのための政府支出を確保しておく必要がある。財政赤字の一時的な拡大を忌避するあまり、そのような政府の経済的能力の行使をあえて怠り、失業や倒産の拡大を放置することは、政府の経済的な存在根拠それ自体を否定することにほかならないのである。
 そもそも、この民主主義の社会において、失業や倒産の拡大に無為無策を決め込むような政権が、一時的にはともかく長期間において存続可能であるはずはないのである。
それは、「財政再建」を掲げて当初はマスメディア等の大きな期待を集めた橋本政権が、その後にどのような評価を受け、どのような顛末をだどったのかを想起すれば、明らかであろう。
 したがって問題は、政府の財政政策への依存それ自体にあるのではない。九〇年代のような経済状況では、おそらくどのような政権であれ、そうするしかなかったのである。それをしなければ、単にその政権自身が橋本政権の役割を演じたにすぎなかったであろう。
 つまり、真に追求すべきは、「なぜ政府はそうするしかなかったのか」なのである。そして、その答えは明らかである。それは、前章で明らかにしたように、九〇年代を通じた不十分な金融緩和政策が、日本経済に巨大なデフレ・ギャップを定着させ、デフレと失業を促進させ続けてきたからである。政府の立場からすれば、その失業の拡大をそのまま放置するわけにはいかないのは当然である。 以上のように考えれば、「政府は構造改革の進展への妨げとなっている財政政策を直ちに見直すべきである」といった、しばしば散見される構造改革主義的な主張の浅薄さは明らかである。それは批判の矛先をまったく取り違えているのみならず、政策的処方箋としてもきわめて一面的である。真に批判されるべきは、財政を拡大させた政府それ自体ではなく、デフレ・ギャップの拡大を放置することで、結果としてそのような行動を政府に強いることになった、九〇年代の日本の金融政策運営なのである。そして、問題の根源がそこにある以上、政府がただ財政支出を縮小させればよいというわけにはいかない。そのようなことをすれば、デフレ・ギャップはさらに拡大し、失業と倒産はさらに増加する。それは単に、政府が自らの役割を放棄していることにすぎない。
 結論は明らかである。それは、政府財政の真の再建は、デフレ・ギャップが縮小し、デフレと失業が十分に縮小したときにはじめて可能になるということである。最も優先されるべきは、財政再建それ自体ではなく、政府に財政拡張を強いてきたデフレ・ギャップの縮小である。そして、そのデフレ・ギャップ縮小の役割を担うのは、金融政策以外にはない。それは、そもそも不十分な金融緩和こそがデフレ・ギャップ拡大の最大の原因であったことからすれば、あまりにも当然なのである