岩田規久男『インフレとデフレ』

 1990年の8月に刊行された本が22年近くを経て加筆され再版された。僕も90年版を手に取ったとき、まだ大学院に入る前であった。そのとき今回の2012年版のまえがきにもあるように、当時はまだインフレが問題だった。そのため大学院で僕が始めていたデフレーションの研究の中で本書はあまり重要なものとは映らなかった。だが、今回の2012年版は、この20年近くにおよぶデフレーションの経験をフルに活用し、さらに予想(期待)を重視する金融政策のフレーム(つまりインフレ目標)の意義をより深く解説することで、インフレとデフレの題名にふさわしい決定版になったといえる。

 日本にとってデフレの経験は不幸だが、本書がデフレの側面を強化したことは、この本にとっての「幸運」だといえる。おそらくこれから長い間、本書が経済の貨幣的な側面を考えるときに古典としての地位を占めるのは間違いない。岩田先生の本書改訂にかけた情熱はすばらしい。

 さてまず第1章では、インフレとデフレを定義し、特にインフレを題材にして、その極端なケースであるハイパーインフレーションと戦前の大不況(デフレ不況)の事例を深く掘り下げている。そこでマネーストックや予想(期待、expectationの訳)の役割が重要であることが示唆されている。

 第2章はインフレとデフレがもたらす社会への負担(コスト)をさまざまな側面から説明し、またインフレのリスクヘッジについても詳細に解説している。このインフレ時のリスクヘッジの記述は、日本が本格的にデフレを脱出するときに参考になるだろう(特に日本銀行派が、デフレを脱したときのインフレリスクを過大に喧伝しているいまの日本では。ちなみに単にそのような日銀派の懸念はただの失政の言い逃れでしかない、と海外からも指摘されているが)。

 第3章はデフレ発生のメカニズムの説明であり、どこではマネーストックの減少がデフレを生み出すことが指摘されている。またケインズ経済学やマネタリストの詳細な説明も読者の理解を促すだろう。第4章は非常に重要な章である。なぜインフレが生じるのか、その長期的なメカニズムを明らかにしている。

 インフレ率=マネーストックの増加率ー(実質経済成長率+マーシャルのkの上昇率)

この基本方程式がインフレであるかデフレになるかを決める。右辺の括弧内は実質貨幣需要の変化率と同じである。なぜこの基本方程式がでるかの詳細は本書を読んでほしい。右辺の第1項と括弧との大小によってインフレかデフレかが決まる。

 ちなみにマネーストックについての定義などは日本銀行のこのページも参考されたい。

 第5章はインフレとデフレの歴史。特に新版になってなぜ戦前の世界恐慌が起きたかを説明する現状の標準理論である、国際学派(金本位制の足かせ理論)が詳細に説明されている。そしてデフレ不況脱出における高橋是清の政策の先進性も説明されている。現在と過去の昭和恐慌は違うといういまでもその種の主張があるが、それは国際学派の理論を知らない無知による。

 第6章から第9章にかけては、スタグフレーションのメカニズムとそれに決定的な要因となる予想の関連が詳細に説明されているといっていい。

 第10章は、今日の長期デフレの説明とインフレ目標の解説であり、やはりいままでのすべての章の説明が流れ込み、そこにこの20年の日本が抱えている負の遺産が、本書の中で正の遺産として転じているさまがわかる。リーマンショック以降も含めて、インフレ目標の採用国と非採用国がいかに対照的なパフォーマンスを示しているかが国際比較でわかる。よくちまたでみかけるリーマンショック以降、インフレ目標は失敗したとか、インフレ目標のためにリーマンショックは生じたとか、その種の妄言がいかに単純な事実で打破されるかがわかる。

 またインフレ目標のほとんどが伸縮的なインフレ目標であり、これも日本で日本銀行派が喧伝するような厳密なものではなく、中期的なプラットフォームとして、短期的には物価と失業のトレードオフに配慮したものかが丁寧に説明されている。また長期デフレのメカニズムが先の基本方程式で示され、同時にいまのデフレ継続を反転するには、デフレ予想をインフレ予想にするレジームチェンジが重要であり、そのアンカーとしてのインフレ目標の重要性が示唆されている。「政治力」などというあいまいなアンカーは登場しない。

 なお、先の基本方程式はあくまで長期の物価とマネーストックとの関係をしめし、また短期的な側面を考えるときは、この長期と結びつけるためにも予想のファクターが重要になる(「政治力」ではそのような役割が果たせない)。例えば、マネタリーベースが増加しつづけると、市場関係者の予想インフレ率が上昇する(インフレ予想を担保する政策側のフレームは、「政治力」などではなくインフレ目標である。それ以外に名目的なアンカーがととりようがない)。インフレ予想が生まれると、貨幣の資産需要が減り、他方で取引需要が増加する。これによって株価上昇と円安がもたらされ、それが投資や消費を刺激する。総需要の増加は実質経済成長率の上昇をもたらす。ただし短期的には実質経済成長の上昇にともなう貨幣需要は、企業や家計が保有していた貨幣を取り崩すことで生じる(=短期的には銀行の貸出は増加しないことに注意)。貨幣の資産需要の低下はマーシャルのkを低下させる。この段階ではマネーストックに変化なく、予想インフレ率とインフレ率の上昇が観察される。やがて中央銀行が緩和姿勢を継続すれば、銀行の貸出が増加し、それがマネーストックの増加とインフレの共存をもたらす。このような一連の名目と実質価値との関連をコントロールできるのは、財政政策でも「政治力」でもできない(なぜこんないうまでもないことを書くかといえばネットの一部や経済的に無知な論壇でそのような発言があるためである)。インフレ目標がこの短期と長期をむすぶ予想のコントロールに効果を発揮できる現行ではもっとも信頼できる政策といえる。

 本書は初心者でもじっくり構えることで理解が容易にすすむ名著である。ぜひ一読されたい。

インフレとデフレ (講談社学術文庫)

インフレとデフレ (講談社学術文庫)