太宰治の文学と経済ー逃げるということー、マンガのキャラクター論

一年以上前にシノドスメールマガジンに投稿した原稿の一部を以下に。当時は太宰治の作品を読んで、「逃避すること」というキーワードを得た。いまもその太宰の戦略はいろいろな面で興味深い。以下はいまの僕の立場ー物語の経済学ーからするとそのプロトタイプ。

1 太宰治の描くゲンジツ消費
 版権の関係もあるのだろう。太宰治の作品を原作とした映画やマンガが目立っている。映画では、『ヴィヨンの妻』、『パンドラの匡』が好評を得ていたし、ほかにも『人間失格』『斜陽』もあった。マンガでは『人間失格』を原作にした作品が少なくとも三作は出ている。
 佐藤江梨子の出演した『斜陽』は、残念ながらそれほどいい出来ではなかった。戦後の没落貴族の家庭を襲う悲劇を描いた原作の方は、一種の反経済学的な発言があることでもよく知られている。もっともマルクス経済学を「経済学」だとすればの話だが。
 物語は、新憲法発布に伴う華族制度の廃止、一家の精神的支柱である父親を失った母子の戦後の生活の破たんを描くものであった。没落貴族の娘の視点から物語は主に語られている。「最後の貴婦人」である母親の死、薬物中毒になりやがて「姉さん。僕は貴族です」と結ばれた遺書を残し自死する弟、そして弟の知人である妻帯者との不倫関係が綴られていく。
 小説の中で、何度も「極限状態の中での道徳(正義)」とでもいうべきモチーフが語られている。ここでいう極限状態とは、社会のある安定した状態から別の安定した状態への「過渡期」として現れる。過渡期においては、旧来の価値観や生活態度が問われ、大きな社会的ストレスとその昇華がもたらされる。消費生活をみれば、マンネリした消費パターンから新奇なものへの追及がもてはやされる。旧来の安寧は維持されず、新生への不安と期待が交錯する状態。この不安定で、極限的な状況ともいえる中で、人々はなんらかの価値観、道徳をアンカー(精神的重石)として求めるのかもしれない。戦後まもない頃の日本社会はそうだったろうし、また高度経済成長期もまたそのような過渡期であったかもしれない。
 『斜陽』には太宰自身の生家(青森の津軽地方の大地主)の戦後における経済的没落が背景にあることは間違いないだろう。また経済学者の猪木武徳が指摘しているように、『斜陽』には太宰の平等主義に対する批判が屈折した形で表現されているともいえる(『文芸にあらわれた日本の近代』有斐閣)。作中で自死する弟に、戦後社会の新しい道徳(正義)でもあった平等主義について、太宰は次のように言わせている。

 「人間は、みな、同じものだ。なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉」。

 「僕には、希望の地盤が無いんです、さようなら」と書き残して自死する弟は、経済的な没落(これは戦後の経済的な「平等主義」の適用である華族廃止や土地制度改革の産物)と、女性とのラブアフェアの失敗ということに対応できなかった、これからも適合することはできないだろう、という状況に絶望する者として描かれているように思えるだろう。
この弟に生身の太宰自身を重ねることは、またデフォルト的な解釈でもあるだろうし、極限的状態で精神的な重石としての道徳(正義)を見出すことができなかったものの敗残の光景として本篇は描かれている(ようにも思える)。太宰がここで描いたことは、簡単にいうとこうだ、弟はリアル(現実)に負けた、と。
 ところで主人公の没落貴族の姉もまた生活能力に乏しく、弟や母親の死を十分に受け止めていない。彼女はローザ・ルクセンブルクの『経済学入門』を臨死の母親の横で読みふけっている。彼女はローザの本の中にある経済学自体にはまったく魅力を感じない。経済学はケチな人間の分配の問題でしかなく、興味の対象とはなりえない。彼女が魅かれたのは、ローザの著作からにじみ出る「恋と革命」というテーゼだ。

「それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙な興奮を覚えるのだ。それは、この本の著者が、何の躊躇もなく、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。どのように道徳に反しても、恋するひとのとことへ涼しくさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮かぶ。破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようという夢。そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさねばならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている」。

 もっともローザの『経済学入門』を読んでも、「恋と革命」などほとんどの読者は感得しないであろう。太宰のローザへのファン的心情が、作中の姉に一方的に仮託されていたのだろう。
 ここで注意したいのは、太宰は同じリアルの犠牲者である姉と弟に異なる決断を用意したことだ。弟の方は自死を、姉の方は不倫相手の子供を身ごもり、「犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者」と自らを規定しながらも、「私は私の革命の完成のために、丈夫で生きて行きそうです」と語らせる。太宰の描く犠牲者の差異は、「恋と革命」というテーゼを手に入れたか否かの違いでしかない。
もちろんこの「恋と革命」は、作中でも「革命は、いったい、どこで行われているのでしょう」と娘が語るように、おそらく現実的な選択肢ではない。ここでいう「恋と革命」とは、終始一貫して娘がつらい現実から逃避する場所であり、ユートピア的なものだ。この連載の言葉を使えば、現実ではなく「ゲンジツ」(こころの消費対象)だ。
 猪木は次のように説明している。

「かず子(没落貴族の娘)にとって、「恋と革命」こそが、どれが確かなのか判断できないような不定形な「現実」の中から、何とか選択しうるひとつの「可能な現実」となったのである。いったい。現実とは何なのか。夢想と現実感の交錯する中で、確実なものが何かを選び取らねばならな。「可能な現実」(possible reality)と確定することは、「現実的な可能性」(real possibility)を計算し比較考量することとはまったく異なる作業である。前者は革命を夢見る思想へ、後者は社会改良の可能性を探る思想につながる」(前掲書、54頁)。

 「可能な現実」はゲンジツ(こころの消費)でしかない。こころの消費は限界コストがゼロに等しく、同時に得られる快楽はかなり大きい。「恋」(こころの消費レベルでのもの、現実の他者との恋愛を意味していない)という状態は、経済学者のティボア・シトフスキーが指摘したように中毒性をもつだろう。なぜなら現実がもたらす苦痛を回避するために、このような経済合理性のある「恋」(快楽)が選ばれる。
こころの消費である「恋」は、その圧倒的に低い機会費用と、また苦痛回避性によって中毒性をもつ、というのがシトフスキーの主張である(『人間の喜びと経済的価値(原題:喜びを欠く経済)』日本経済新聞社)。
またこのような現実の苦痛からの回避をするために選ばれた(こころの)生産物を、かってケインズと同時代の経済学者であったラルフ・ホートレイは「防御生産物」と表現した。かず子にとっては、「革命」もまた「恋」と同じ防御生産物(中毒性のこころの消費対象)だろう。
それに対して、「現実的な可能性」というのは、ある蓋然性を付された無数の選択肢を意味する。人はこの「現実的な可能性」を便益と費用を比較考量して選択する。便益と費用の比較考量自体は、先の「可能な現実」を選んだ際にも同じである。しかし猪木では、この「現実的な可能性」には、幻想やユートピア的逃避、あるいは(現実的な裏付けがない)こころの消費そのものが周到に排除されているだけだ。簡単な例でいえば、現実の恋愛行動そのものを指し、妄想レベルの「恋」は排除されているということだ。
猪木は、太宰の『斜陽』の中に、この連載でいうところのゲンジツ(可能な現実)と現実とを分けること、前者の後者への優越を見て取ったのだろう。
さらにこのゲンジツは、平等主義という戦後道徳へのアンチテーゼとして太宰の作品の中で採用されている可能性がある。
なぜなら「恋と革命」は少なくともこの没落貴族の娘の採らざるをえない新しい行動規範である。新しい道徳(平等主義)に適応できない「犠牲者」ではなく、その「破壊者」として充たすべき道徳。貴族としての経済的地位は、現実には崩壊したが、その現実の苦痛(生活苦)を回避するために逃げ込んだ、新しい道徳の世界。それは確かに妄想の産物かもしれないが、現実(平等主義的なもの……貴族的特権を廃され、庶民と同じ条件で競争せよという辛い現実)の代替物となりうる。その優れて経済効率的な特性において。
やや議論が性急すぎたかもしれない。こころの消費としての「恋と革命」が、一種の倫理的な次元を持つことをここでは確認しておくだけで今はいいだろう。

2 マンガにおけるキャラクター論

 いままでの議論でわかるように、経済的効率性という観点から、経済学は、妄想やユートピア的逃避にふけること、あるいは、こころの消費中毒などの行為を人間が選択することを説明してきた。
 この点は、最近のマンガやアニメにおけるキャラクター論を考える際に重要になってくる。稲葉振一郎は、最近の論説の中で、マンガやアニメについてのキャラクター論を展望している(「キャラクターをめぐる「批評」「社会学」「社会科学」−小田切博『キャラクターとは何か』によせて」『思想地図』vol.5)。
 日本におけるキャラクター論といえば、大塚英志伊藤剛東浩紀、そして稲葉振一郎自身のものが有名である。稲葉は彼らのキャラクター論を「批評」あるいは「社会学」的アプローチとして括っている。
 ここでいう「批評」的・「社会学」的アプローチとは何だろうか。
まず稲葉はマンガ論の対立的な視点である「表現論」と「反映論」を参照する。稲葉の説明を借りよう。

「「反映論」はもちろん、まんがに描かれた虚構の物語が現実、それも社会的な現実を何ほどか「反映」しているとみなし、その上でまんがを手がかりにそこに投影された現実について、更にはそうしたまんが表現と現実との関係について考察する、というスタイルである。それに対して「表現論」と呼ばれるスタンスは、表現としてのまんがの厚み、固有の構造を関心の対象とする。(略)そこでは「キャラクター」についても、ただ単に「まんがで表現された人物の似姿」としてではなく、たとえば「まんがにおいて人物を表現するための独自の形式」と解釈」(前掲書、241頁)される。
 
 「反映論」の代表としては鶴見俊輔小野耕世らの功績が知られ、「表現論」としては夏目房之介伊藤剛らが知られている(表現論については著者の論説http://bisista.blogto.jp/archives/1251935.htmlを参照のこと)。
 この従来のマンガ論の対立を、たとえば稲葉や東らは「社会学的」・「批評的」アプローチで乗り越えているという。どういう点においてか?
 それは社会学が、社会科学一般(経済学もその中に包摂される分野)に解消されない固有性に基づくからである。稲葉、東らのキャラクター論は、マンガやアニメの表現のもつ固有の厚みを、社会の反映ではなく、それ自体が社会的現実の一部であると解釈することに特徴がある。 
 例えば、稲葉は「中小企業」というカテゴリーは、経済学からは問題があるものとみなされ、それが現実ではない「幻想」であれば、経済学は分析の対象としないと説明している。
他方で、社会学はそれが「幻想」であっても、人々が「幻想」を抱いていること自体を分析対象にできるという点で、経済学と大きく異なる、という。ここでいう「幻想」を、いままでこの連載で言及してきた、ゲンジツと読み替えても間違いではない。
 このような社会学的・批評的なアプローチに対して、小田切博が「社会科学的アプローチ」を、キャラクター論に適用したことは、新しい企てである、と稲葉は述べている(小田切博『キャラクターとは何か』ちくま新書)。
 これも稲葉の言葉を借りておく。

「新著においては作品やキャラクターから意味を汲み出す「批評」をあえて封印し、商品としてのキャラクターの生産と消費の動態を客観的に描き出して、社会の中でのその位置を抉り出そうとする。そこで描かれるのは、社会的現実の鏡としてのキャラクター文化ではなく、社会的現実の一部としてのキャラクター文化・産業の実態であり、それをめぐる政策の展開である」(稲葉前掲書、242頁)。

 言い換えると、小田切の業績は、もっぱらキャラクターの“現実”分析にあり、“ゲンジツ”分析ではない、ということだろう(小田切への批判的コメントは著者のブログ参照)。
 しかし、読者の多くは、経済学が現実分析のみならず、ゲンジツ分析においても長い歴史を重ねてきたことをすでに知っている。あえて社会学固有のテーマとする意義に乏しい。むしろ従来のキャラクター論は秘かに? 経済学的な観点を「輸入」してさえいる。
 例えば、大塚英志のキャラクター論を見てみたい。大塚は、現実の単純な模写であるリアリズムと、記号的な虚構世界で、現実の深刻な話題を抉り出す手塚治虫起源の「まんが・アニメ的リアリズム」とを区別している。
 大塚のいう「まんが・アニメ的リアリズム」が、ここまで一般的に広まった背景には、大衆がいとも簡単にテレビや雑誌媒体などでマンガやアニメに触れることができ、それが虚構のキャラクターの流通に大きく貢献したからだという(稲葉、東ら)。かって現実の模写たるリアリズムが栄えたのはそれが人々のコミュニケーションの効率がよいからであり、またいま「まんが・アニメリアリズム」が栄えているのは同じようにコミュニケーションの効率が良いからである(東園子「妄想の共同体―「やおい」コミュニティにおける恋愛コードの機能」)。 
 ここでいわれている「効率」とは、経済的効率のことを指しているだろう。
 「まんが・アニメ的リアリズム」は、キャラクターが何であるか、またストーリーの持つ文脈が何であるか、それらを理解する機会費用が小さい、と言い換えることができるだろう。
そして同時に、太宰治の『斜陽』を分析する際に触れたように、理解のコストが小さいだけでなく、また「まんが・アニメ的リアリズム」=ゲンジツに耽るコストもきわめて低いのだ。
 おそらく社会学固有のキャラクター論は「死んでいる」。