ももいろクローバーZの経済学

 これはシノドスメールマガジンに寄稿した論説のうち、ももクロさんたちに関する部分だけを引用したもの。本格的なアイドル経済学風(笑

 4月12日に「ももクロ試練の七番勝負」というトークイベントに参加した。「ももクロ」こと、ももいろクローバーとは、2008年5月に結成された女性のグループタレントのことである。つまり僕はタレントのイベントに初参戦したわけである。以前もAKB48を含めて何人かのタレントの方々と一緒に仕事をしたことはあるが、さすがに本職が地味な経済学者であるので、アイドルのイベント参加の経験はいままでなかった。僕の周りをみてもろくな助言者はいそうもないので(笑)、まったくのアウェイ感覚で会場入りした。

 ところでももいろクローバーとは、2008年5月に結成された、スターダストプロモーション所属(所属レーベルはスターチャイルド)の平均年齢15歳台の“五人”組である。実はこの12日の前、10日までメンバーは6人いた。早見あかりさんが抜けて、その日から「ももいろクローバー」は、「ももいろクローバーZ」に名称変更している。なので本稿も本当は「ももいろクローバーZの経済学」と題すべきだろう。現在のももクロZのメンバーは、リーダーの百田夏菜子(94年生まれ)、高城れに(93年生まれ)、有安杏果(95年生まれ)、玉井詩織(95年生まれ)、佐々木彩夏(96年生まれ)さんたちである。もちろん日本のバブル経済とその崩壊どころか、97年のアジア経済危機や日本の金融危機さえも同時代的な記憶がないかもしれない。

 ところで、彼女たちの名称変更の軽さに象徴されるように、変幻自在の企画を連発するゲリラ的な演出がももクロの魅力だといわれている。で、なんでその変幻自在なアイドル集団に僕が呼ばれたかというともちろん『AKB48の経済学』のおかげだろう。この本を書いている途中で、同じ「会いにいけるアイドル」というコンセプトを核にしているアイドル集団として、ももクロの存在には注目はしていた。

 イベント自体は、同じく出演していた金子哲雄、司会のおふたりのうち特に南海キャンディーズの山里の両氏が、やはり場馴れしていて、本当にこういうのはアウェイだなあ、と思わずにはおれなかった。ただ壇上の方からももクロのファンの雰囲気に接することができたのは得難い経験である。そんな経験をできる経済学者はめったにいないだろうから。ちなみにももクロのメンバーはみんなとてもかわいいし、運動神経がずば抜けているようにも思えた。特にリーダーの百田さんは高校のときに同じ教室にいたら人生を間違えてしまうほどの美少女である。

 さて、今回はなにもももいろクローバーと共演できたぜ、うらやましいだろう、といいたいために書いているのではない(まあ、ちょっとはそう思ってはいるがw)。共演の模様は、5月6日午後6時からテレビ朝日の動画サイト「ももクロchan」http://www.tv-asahi.co.jp/douga/momocloch/index.htmlで配信されるのでそのときを楽しみにしていただきたい。

 ももクロを特徴づける言葉がいくつもある。「百田のエビぞりジャンプのインパクト」「プロレスや戦隊ものを意識したキャラ設定」「何事でも全力で一生懸命、アイドルなのにノリはロック」などなど…他にもまだいくつもあるだろう。その多くはももクロのファンたちによって共有されている。このようなももクロのキャラクターはどのような理屈で決まるのだろうか? アイドルというものが、いくつかの目立つ特徴の集合であるならば、その目立つ特徴はどのような理屈で選ばれるのであろうか? 

 ももクロとそれを見ている観客がいるとしよう。観客がももクロのファンに変化していく過程は、この両者の相互作用として考えることができる。一種の交渉である。ところがこの相互作用はかならずしも数式でうまく表わすことができない。例えばももクロの特徴として、「百田のエビ反りジャンプ」がどうして選ばれるのか、その基準は単にそれがユニークで、目立ち、他に比較できるものがないからだ。しかし他方で、別なファンにとっては、ノンストップライブが彼女たちの最大の特徴かもしれない。個々それぞれのファンには、「これぞももクロ」という線引きが行われている。そしてその線引きを理解できないものは、おそらくファンとして認定はされないのだ。

 この線引きのことを、経済学ではフォーカルポイントと呼んでいる。経済学者のトマス・シェリングが提起した言葉だ。よく紹介される例は、知らない街で友人とはぐれてしまうケースだ。連絡する手段も、どこに行けばよいかも、何時にいけばよいかもわからない。シェリングはニューヨークでそのような事態に陥ったらどうするか、と学生たちに質問した。彼らが択んだのは、グランドセントラル駅の時計の前に正午だったという。このグランドセントラル駅の時計の前正午、という選択は、単に選ばれたものが目立ち、ユニークであることから行われている。もちろん選ぶ人間によってフォーカルポイントは異なる。このフォーカルポイントが多ければ多いほどいいというわけでもない。例えば総花的な特徴をもつアイドルも、またアニメやマンガなどもおそらくそんなに売れはしない

 多数のファンがいて、その人たちの最少公倍数的に選ばれたフォーカルポイントが存在する。その最少公倍数のフォーカルポイントこそアイドルをアイドルたらしめているといえる。さきほどの百田さんは美少女であるが、それはおそらく彼女のフォーカルポイントではない。その全力さ、ひたむきさ、柔軟性さを象徴する、一意的で顕著なものーエビ反りジャンプが、フォーカルポイントとして「洗練化」されていると思われる。

 そしていくつもあったフォーカルポイントからの「洗練化」は、ファン同士あるいはアイドル側との「現場」での交渉によって次第に形成されていく。その「現場」に力点を置いたアイドルのことを、「会いにいけるアイドル」ともよぶのだろう。

 このようなファンによるフォーカルポイントの「洗練化」は、経済学が依拠する稀少性とは異なる原理で機能している。この点に注目したのが、この連載でもしばしば登場するタイラー・コーエンである。コーエンは、フォーカルポイントの議論は、各個人の「こころの消費」の枢要な部分として位置付けている。例えば、それぞれの人はそれぞれの人生についてのイメージをもっているだろう。

 「自分の人生はかくかくしかじか」とおそらく巧緻はともあれ、誰でもが自分とは何者であるかなんらかしらの特徴を付与することができるだろう(特徴がない、というのも特徴づけだ)。このときに人は自らの「物語」を語っているともいえ、その「物語」の力点を、コーエンはフォーカルポイントとみなした。シェリングの議論をカルチャー全般に応用する可能性がコーエンの議論にはある(詳細は、今月末に刊行されるコーエンの翻訳『創造的破壊』(田中秀臣監訳、浜野志保訳、作品社)での田中の長文解説「タイラー・コーエンの経済学」を参照されたい)。またコーエンはこのフォーカルポイントの議論を、例えば9.11でなぜワールドトレードセンタービルがテロの標的になったかを説明することにも利用している("Terrorism as theater: Analysis and policy implications",Public Choice 126(2006年))。

 ももクロファンの多くはももクロという「物語」に対してそれぞれのフォーカルポイントをもっている。そしてそのフォーカルポイントの多くは、他のファンやアイドル自身のセルフイメージとも共通している。これはフォーカルポイントの洗練化として「会いにいける」場が機能している証拠でもある。さらにこのももクロのフォーカルポイント自体が、それぞれのファンやアイドル自身の人間としてのアイデンティティの重要な一部をなすであろう。

 人は多様であると同時に、多くの面で他と同じものを嗜好する凡庸な存在でもある。この両面性を同時に把握できる概念としてフォーカルポイント(とその洗練化)はきわめて興味深い。

 先日、現在ノイタミナ枠で放送されている経済アニメ『C』の中村健治監督と対談した際にもこの話題がでた。そこで監督は次のように述べている。

「田中 略 従来の経済学では経済的な選択はすべて効率性や稀少性に支配されていた。ところが「こころの消費」においては、それは個人の多様性に基づくそれぞれの「物語」の力点=フォーカルポイントが重要になる。それは単なる嗜好の話ではなくアイデンティティですらある。
 中村 そういう意味では、僕も「全体を食べないとわからない」ものを造ってもダメかなと思っています。『C』のテーマは経済だけど、バトルはあるしキャラクターのカワイさなどもある。でもそれは意味性としては繋がっているんです。一人の趣味をみんなの趣味に移行できたらいいな……と思っています」(『週刊SPA!』4月26日文化堂本舗、111頁)。

 中村監督の発言は、本稿におけるフォーカルポイントの洗練化を意味している。それはひとりのファンのアイデンティティが、より多くの人のアイデンティティと交流し、その最少公倍数が摘出されていく過程でもあるだろう。その意味で、個々人のフォーカルポイントはすでに「社会」的なものに開かれている。

 ここでアイドルのゲンジツとは、まさにファンとアイドルが会いに行ける現場で洗練化していった(いくつかの)フォーカルポイントで紡がれた「物語」であるともいえるだろう。僕は4月12日にその場に居合わせたことになる。

 こうゲンジツを定義すると、それは現実と重なってしまう。現実とゲンジツが実はメビウスの輪のように表裏一体、どこから区切るべきか判然としないものになる。このメビウスの輪をどこで切断すべきか、すべきでないのか(そもそもそんなことが可能なのか可能ではないのか)。ここに物語を経済学する最大の眼目があるように思える。