『atプラス』第三号

 個人的に毎号ご飯お代り的にネタをもらっている雑誌『atプラス』の最新号です。さて、前号からこの三号がでる間で、巻頭に書かれている岡崎乾二郎氏に反応するようになった自分がいるわけですが 笑。

 昨日、配信されたビジスタニュースでも岡崎氏の昔の論文「333からトビウツレ」(『現代詩手帖』1985年11月号)をとりあげて合理性とは異なる基準でのマンガ論であると紹介しました。岡崎氏の今回の巻頭エッセイも要するに、人間中心的な合理性基準への反論という意味では「333からトビウツレ」と同じ主張をしているといっていいでしょう。

「人間ではなく宇宙こそが(人間の都合にすぎない時間と空間に対峙し)抵抗し、そして思考する。すなわち天体こそ理論としての抵抗、抵抗としての作品である」(<活動>へのアート第三回)。

 予め空間と時間を合理的に確定してしまう思考方法をデモクリトス的とし、それとは反対にエピクロスは空間や時間は幾何学(ここでは合理性の別様の表現と理解しておく)に回収されない、と考えたという。

「対してエピクロスの考えはより徹底している。幾何学を描くのは、それぞれの原子それ自体である。原子がその外にある幾何学に沿っているのではない。それぞれの原子が幾何学を描くのだ(原子の外に幾何学という抽象物はない)。反跳とは、いわば、それぞれの描く幾何学のあいだのズレ、遅れである。宇宙はこうしたズレによって構成される。そして、こうしたズレによって運動が起る。そこに無数の同期不可能な時間=幾何学が存在する」。

このようなエピクロス的な思考方法を岡崎が支持しているのは明らかである。上の引用に現われた「原子」を「コマ」(特に先行するコマ)に置き換え、「運動」を「コマ割り」に、そして「宇宙」を「マンガ」に置き換えれば、岡崎のマンガ論がこのようなエピクロス的な思考方法に基づくものであることがわかる。

例えば、「333からトビウツレ」の「トビウツレ」こそ上記の「反跳」そのものの動きであろう。以下は「333からトビウツレ」からの引用である。

「まんがの持つ最も魅力的な特性は、閉じた一つのコマから次のコマへのその都度飛躍していかなければならないところにあった筈だ。そしてその閉じたコマから逃れることを自ら禁じつつ、なおその閉じたコマの中から別の次のコマを探さなければならないというダブル・バインド的状況がまんがを最も刺激的にしていたのだ」。

 このようなマンガ観(エピクロス的運動論)から、「333からトビウツレ」当時の岡崎は、楳図かずおの『わたしは真悟』を最も刺激的であると評価している。なぜなら楳図のマンガでは、登場人物ずべてが「何かが起こる」と予期しながらも既存のインプットされた情報から合理的に帰結して予測を導き出すことができず、と同時にそれでも既存の情報から必死に予測しなくてはいけない「ダブルバインド的状況」を描いているからだという。まさに予測のためには「トビウツレ」(ロードス島だ、跳べ)と何かに命令されている状況なのである。

 冒頭の岡崎氏のエッセイ1頁だけでこんなにご飯(エントリー)が食べれた 笑。ところで他のところだが、内田樹氏の「大人になるための経済活動」は、まあ、経済学勉強し直してください、終わり、でもいいかもしれないが、それでも思想に優しいあなた(当ブログの読者のごく一部)は、レヴィナスの『貨幣の哲学』や中沢新一の『純粋な自然の贈与』などと読み比べてみるのも面白いかもしれない。

 東浩紀×西山雄二「アナクロニックな時間のつくり方」、稲葉振一郎さんの前号へのレビュー論文「社会学者がなぜ革命の夢を見るか?」は面白い内容である。特に後者の後半は、現代の成長理論が経済格差をどう考えているかのわかりやすい解説になっていて便利だろう。

 まだ読んではいないが、『怒りのソウル』で興味深い韓国ルポを書いてもいる雨宮処凛氏が行った「メディアアクティビスト パク・ドヨン インタビュー」は面白そうである。

atプラス 03

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怒りのソウル―日本以上の「格差社会」を生きる韓国

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