ゾンビ経済学ーゾンビとしての手塚治虫、福満しげゆきのゾンビー

 「ゾンビ経済学」といっても銀行が、死んでるはず(≒倒産しててあたりまえ)の企業を延命させる融資を行うことで、日本経済の生産性が低下云々というものとは異なります。以下は、本当のゾンビを経済学的に考察しようかなあ、と思ったもの。でも未完w。

 またまたシノドスメールマガジンにちょうど一年前に投稿したもの。ここらへんからアイデンティティが主題にみえてきた。だいぶあれから進んでる(と僕は思ってるんだけどw)。アイデンティティの不確定性も、実はアイデンティティの複数性の中でとらえればいいと気が付いてきた。ここらへんは物語の複数性として一月ほど前に大東文化大学の研究会で報告した。以下のは未完ながらも、まあ、アカロフらの『アイデンティティの経済学』の応用を漫画でしたことがみそ。

1 テズカ・イズ・ゾンビ
 ゾンビ映画というのも不思議なものだ。生者でもなく死者でもない、その間で揺らぐもの。実際に一部の爆走ゾンビモノ(『28週後』など)を除けば、彼らはいつも殺伐とした通りを、あるいは暗闇の中を揺らいでいる。生者と死者との間という意味で、彼らには確定されたアイデンティティがないともいえる。ゾンビは一瞬前、噛みつかれる前までは、名前もキャラも立っていたある人物だったはずだ。しかしいまやその他大勢のゾンビと化して人々に襲いかかる。それも大概の場合は、頭を撃ち抜かれて死者の仲間入り。最悪ではゾンビ同士食い合うかもしれない。その意味では食料用の肉だ。ゾンビのこのアイデンティティの不確定性とでもいえる立ち位置は特異だ。

 例えば、ゾンビは人間を食べる。血みどろで、体の一部が欠損したり、人語を解さないが、それでも姿かたちの基本は、人間でしかない。遠望から見れば、それは人間が人間を食するカニバリズムの行為でしかない。ゾンビ映画、あるいはゾンビマンガの多くが人々を不安にさせるのは、それがゾンビという正体のはっきりしないもの、アイデンティティが不確定なものへの驚異なのだろう。
 もし人間が人間を食べるという行為そのものが、創作の世界でも主題になれば、それはかなりの社会的反響を引き起こすことは、マンガの世界でも10数年前に経験したことでもある(山崎さやか『マイナス』の事例)。しかしゾンビが人間をたべても同種の批判は起こらない。ただ異様に不気味なだけだ。  
 最近出版された、みなもと太郎大塚英志の対談を収録した『まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史』(角川学芸出版)では、マンガのリアル(現実)をめぐって議論が行われている。対談の中で、大塚はかれの手塚治虫論を再説して、戦後マンガで封印されたカニバリズムの行為に注意を促している。

 手塚の習作版『ロストワールド』で、人工生命体のあやめを人間たちが食べるシーンである。これは紛失扱いで今日に至っている。ここで大塚は、手塚の描く肉体が、エロや血肉など生々しい傷つきやすい身体として、記号化されていることに注意を促している。もちろんそれはマンガという記号化の中での血肉であり、解剖学的なリアリティとはとりあえず区別されたものである。  

 この手塚のリアリズムは、いわば生者(解剖学的リアリティ)と死者(内臓なき人間=のらくろ的戯画)とのちょうど真ん中に位置し、いずれにもわずかにぶれながら、それでいてはっきりした定点を見出さず、読み手に不安をもたらしている。大塚やみなもとは、手塚のマンガが放つ「不安さ」について語っている。この不安は、先のことばでいえば、アイデンティティの不確定性がもたらすものだ。あやめは美少女なのか食料なのか? どちらともとれ、それはエロス的欲動と食欲との間の不気味な彷徨である。ゾンビが生者なのか死者なのか絶えず通りをさまよっているように。

 手塚は戦後のマンガに、このような不気味なもの、ゾンビ性をもたらしたのではないだろうか。

 ところで教科書的な経済学では、アイデンティティというのは、最初から選択する主体に存在するものとして仮定されている。仮定されているどころか問題にもなっていなかっただろう。ところがこのアイデンティティ(性別、民族、文化的属性など)は、主体の選択する問題である、とする議論が行われている(アカロフ&クラントン『アイデンティティの経済学』など)。彼らの議論では、生者でも死者でもないゾンビとは、ナッシュ均衡の非効率的な解としておそらく求められる。例えば、いま二人の人間が出会う。彼等は相手が人間であるか、ゾンビであるかを判断する。お互いが人間であると確認すれば彼ら自身のアイデンティティと合うものとして最高の利得を得るだろう。実際にお互いを社会的なカテゴリーで人間同士であると認めれば、いきなりゾンビだとして頭をたがいにうち合わなくてすむ。またどちらか一方だけが相手をゾンビだと認定した場合は、一人だけゾンビとして撃ち殺される。ところが両方が相手をゾンビだと思ってしまうと、お互いが互いの頭部を撃ちぬく殺戮の現場に化すだろう。この最後のケースが、戦後の日本のマンガが選んだ世界だ。読者も書き手もマンガをゾンビ(不気味なもの)だとして認識している。また同時に深く考え込まれることなく、手塚がそうしたように封印されてきた過去の記憶でもある。

2 ゾンビの視点にたつー福満しげゆきのマンガ
 アイデンティティの不確定性=戦後マンガのゾンビ性を、象徴的に扱ったマンガが、福満しげゆきの一連の作品だろう。彼のデビュー作「娘味」は、カニバリズムそのものをテーマにした作品であり、戦後マンガのゾンビ性を極端に露出したものである。そこでは母親も主人公もその同級生の娘もともに人肉を食べる人間として描かれている。ゾンビマンガではなく、マンガというゲンジツの中では、とりあえず「人間」として描かれてはいる。しかし彼らにはアイデンティティ不定である。その世界では多くのゾンビものと同様に、食べるー食べられる関係が容易に逆転している。母親は人肉を食べるが、やがて自らも食べられてしまう。おそらく潜在的には登場人物はみなそのようなゾンビ性に直面している。

 福満がゾンビそのものを、マンガのゲンジツの中で描いたのは、「日本のアルバイト」である。そこではゾンビたち(直接にはホームレスの隠喩である)の死骸を処理する仕事をする人たちが描かれている。この作品では、ゾンビとそのゾンビを処理する人たちの地位が、生者と死者の間でゆらぐもの、として描かれている。ここで興味深いのは、福満のマンガでは、生者と死者というアイデンティティの確立したものとは異なる、アイデンティティの不確定性に直面した主体(つまりゾンビ)自身の視点が描かれていることだ。

 具体的にいうと、マンガの中でゾンビと事実上、同じ位置にいるゾンビ処理業者の面々、特にその若い主人公の視点である。彼ははっきりした態度をみせることなく、いつも人に譲り、少しだけ卑屈なものを感じさせる造形として描かれている。彼の表情は不安そのものである。経済学でいえば自己責任を前提とした自律的に選択する主体というイメージからは遥かに遠い。彼は常に自分の真の姿とは違うものとして他者にみなされているとかんがえていて、他方で他者も彼の真の姿なぞ無関心である。彼のアイデンティティは先の例―互いが互いをゾンビと思ってしまうケースーのように不確定である。「不確定」というのも正確ではないだろう。解は求められているわけだから。むしろ、真のアイデンティティを探し求めることが、外部性によって著しく阻害されているケースだといえるだろうか。それを「社会的排除」とも言いかえることができる。

 いままで無数のゾンビ映画やゾンビマンガ、そして戦後の手塚的ゾンビ身体をもつマンガたちを無意識に消費してきた読者は、ゾンビそのもの視点(ゾンビが何を考えているか)を、初めてマンガのゲンジツの中で読むことになった(と福満の戦略にのればいえるだろう)。

 福満のマンガのゲンジツの中では、アイデンティティの不確定性(ゾンビ性)は、終始テーマとなっている。例えば、『生活』(完全版)では、自警団の狩る側と狩られる側との間で揺れ動く主人公たち、『僕の小規模な失敗』の既公表分の前半における「僕」の非モテと元非モテとの間の揺らぎの描写などである。

 『僕の小規模な失敗』では、「僕」は「妻」との生活によって、とりあえず非モテであった生活から離脱している。が、随所で描かれるものは、非モテでしか為し得ないような(?)小規模な失敗の数々である。杉田俊介福満しげゆき論の中で、「僕」は、「なぜ非モテ的思考回路からを断ち切れないのか」と問うている(「福満しげゆき、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」)。
 だが、おそらく断ち切ってしまえば、福満のマンガの一貫したテーマ、戦後マンガのゾンビ性(アイデンティティの不確定性)を明らかにすること、という戦略は魅力の乏しいものになるだろう。

 手塚がゾンビを生み出した。だがそのゾンビ性は長く忘却された(封印された)。ふたたびゾンビ性をあからさまに描いた福満は、それを「グラグラな僕」と最新のエッセイでは表現している(『グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道』)。

 ところで、『僕の小規模な失敗』『うちの妻ってどうでしょう?』では、このゾンビ性からの「救済」として、「妻」と「僕」の最小単位からなすコミュニティ、家族が描かれているといっていい。「妻」と「僕」はたがいがたがいにゾンビではないことを知っている。マンガの読み手も作者もとりあえずは「妻」が「僕」の「妻」らしいアイデンティティをもつものとして受け取っている。「僕」もこの「妻」にとっての「僕」というアイデンティティを与えられている。他の登場人物が、連載の後期になればなるほど、黒塗り、文字、後ろ姿などなどで匿名化していく中で、「妻」と「僕」との最小単位の「人間」の世界が描かれている、ともいえようか。

またそこでは、手塚のマンガにある美少女=食べ物、という(不安をもたらす)選択肢が巧妙に排除されているのも、福満マンガの戦略だ。デビュー作の「娘味」では、ゾンビ性とは、まさに美少女を食する(セックスする)、として露骨に暗示されていた。ところが、現在の作品で描かれる「妻」と「僕」の間には、セックスが不在している(同様の指摘を杉田俊介はしている)。ゾンビ性が、「妻」と「僕」の関係からは巧妙に排除されているのだ。または宇野常寛風にいえば「レイプファンタジー」の排除だ。このマンガに描かれた「妻」と「僕」の関係性は、セックスを統御した、長谷川町子の『サザエさん』の戦略とも似てもいるだろう。ちなみに「僕」はマスオさんの位置にあり(別に婿養子ではないが)、彼の実家の面々は黒塗りだが、「妻」=サザエさんの実家の面々は、無表情な顔つきで描かれている(「妻」の母親抜かす)のは注意を要する。

 『僕の小規模な失敗』第三巻末尾ではついに新たな家族が誕生した。このコミュニティのメンバー(他者)の増加が、どのような展開を生み出すのかはまだわからない。またゾンビ性は、「妻」と「僕」との間ではなく、「僕」とそれ以外の人々(例えば担当の女性編集者など)との間で発生し、絶えず注意を促されている。

 「妻」と「僕」という最小単位のコミュニティの基準を確立することで、他者=ゾンビ性を相対化していく戦略だといえればいえるだろう。だが、このコミュニティの中に強引に割り込んできた他者(赤ちゃん)はどのような意味をもつのだろうか? マンガの中で描かれた他者とは何だろうか? 次回はこの問題に触れる*1

まんが学特講  目からウロコの戦後まんが史

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グラグラな社会とグラグラな僕のまんが道

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*1:ふれずに違う話題にいった 笑