毛沢東と福田徳三ーフィリップ・ショート『毛沢東』より

 山形浩生さん(+守岡桜さん)の訳業『毛沢東』。まだ完読ができていないのですが、上巻の最初の方でとても気になる部分があったので紹介します。毛沢東マルクス主義理解に大きな影響を与えたのは李大訢であり、李に影響を与えたのは河上肇。そして毛沢東河上肇マルクス主義理解から大きく影響を受けた、という図式が従来信じられてきた。

 ところでショートの『毛沢東』を読むと、以下のような記述があった。

毛沢東の北京旅行は、現実政治の実践としては失敗だったが、後のマルクス主義の転向にとって重要な役割を果たすものとなった。略 それに大きく影響したのは1919年11月の『新青年』に発表された、李大訢による「我がマルクス主義観」という論説で、その第二部はマルクスの経済理論を扱っていた。ほとんど一夜にして毛沢東の言葉遣いは変わった。かれは初めて、自分が変革したいと思っているシステムというのが本質的には経済的なものなのだということに気がついたのだ」(上巻、131ページ)。

 ところでこの僕の論文では以下のように書いた。

 福田の著作が、名前こそ表示されていないが、中国の社会思想に大きな影響を与えたと思われる最初の機会は、李大訢の「我的馬克思主義観」(「私のマルクス主義観」)(前半は1919年、後半は1920年)によってである。中国知識人界への本格的なマルクス主義の紹介を告げるこの著名な論説の前半が、河上肇の「マルクス社会主義の理論的体系」(1919)に基本的に依拠していることはよく知られている4)。また後半の『資本論』の経済学的部分の解説(とその批判)については、後藤延子が論証したように福田徳三の著作『続経済学研究』所収の論文「マルクス資本論』第三巻研究の一節」、「マルクスの不変・可変資本とアダム・スミスの固定・流通資本との関係」、さらに「難解なるカール・マルクス」と『続経済学講義』の一部に基本的に依拠したものであった5)。李大訢と河上・福田という同時期の日本を代表するふたりの経済学者が、この中国社会思想史上画期的な論文の源流を構成することになった意義は大きいだろう。

 これをもとにすると、ショートの解釈が正しいとするならば、毛沢東マルクス主義理解に決定的な影響を与えたのは、福田徳三のマルクス主義理解であるということになる。これはいままでの通説とは大きく異なるのではないだろうか?

 ただショートの文章によれば『新青年』の1919年の11月に全文が掲載されたかのような記述だが、それは前半だけであり、翌年にショートが毛沢東にもっとも影響を与えたという後半部分が掲載されている。

 ショートの毛沢東理解がどのくらいの深度をもつものなのか。僕はここを基軸のひとつとしてみるとショートの本の評価を定めることができるのではないか、と思っている(というか毛沢東の経済理解をこの本で追うという試みの中ででだが)。そのためこのショートの理解がどのくらい正しいのか、今後、従来の「通説」から批判検討されるべきではないだろうか。

毛沢東 ある人生(上)

毛沢東 ある人生(上)