河上肇賞その1:志村三代子『映画人・菊池寛』

 昨日(28日)、第七回河上肇賞の授賞式が行われました。あまりフォーマルなところで話すのは超苦手なのですがw、審査委員を代表してちょっと話をさせていただきました。あまり上手くはなかったと思うのですが、河上肇賞の目的ー河上肇のように文章がうまいこと&「時代と格闘する精神」−について話しました。

 河上肇のライバルに福田徳三という1920年代まで日本を代表する経済学者がいましたが、その福田の弟子に小泉信三がいます。小泉は河上肇マルクス経済学への批判をめぐる論争で対峙するわけですが、同時にライバルこそ相手をよく知るの見本のように、河上肇の代表作である『貧乏物語』について書評の中で、さぃほどの河上肇賞のふたつの目的を明瞭に語っています。

 小泉は、『貧乏物語』の結論を「博士が人間の道徳的改善のためには貧乏を根絶しなければならぬという立場から出発しながら、その貧乏を根絶する方法如何との問いに対しては、道徳的抑制をもってその重なものとなすという矛盾」であるとして批判した。

 だが、他方で小泉は河上肇の文体のすぐれたところをその長所として最大級の賛辞を寄せるとともに、その文章力はふたつの点によるものだとした。それは時事的な出来事に対する即応力、そして徹底的に物事を考える姿勢 のふたつである。河上の文章力はこのふたつを貫こうとすることでうまさがもたらされる。つまり「時代と格闘する精神」を貫けば、そこに文章の「上手さ」もまた伴うのだ、と小泉は書いているともいえよう。

 さて今回の河上肇賞の受賞作は二作。その講評時代は藤原書店刊行の雑誌『環』で近日掲載されるので参照してほしい。ここではまず志村三千子さんの受賞作『映画人・菊池寛』についてひとことだけ書いておく。志村さんの著作を読むのは実は二度目で、このブログでもとりあげた梶谷懐さんも寄稿した論集『淡島千景 女優というプリズム』(青弓社)に寄稿された「淡島千景獅子文六」である。

 志村さんの今回の受賞作もそうだが、単なる映画論からの側面ではなく、文学論としての側面もあり、文学と映画の相互関係、そして時代と環境の変化によって変貌する映画の流通形態にも配慮していることが特徴としてあげられる。まさに複眼的な映画論となっている。受賞作は菊池寛の映画論としてだけではなく、戦時体制の下での映画と文学の在り方、そして菊池寛個人の文学論としても読める大作である。早期の公刊がまたれる。

関連する本ブログのリンク
淡島千景 女優というプリズム』http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090522#p1
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河上肇記念会会報』と「最後の河上肇

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『日本思想という病』でカットした部分http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100208#p1

シノドスリーディングス『日本思想という病』 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100119#p2

三浦梅園、福田徳三、河上肇、そして貨幣価値http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20091212#p2

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杉原四郎の自由時間論http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090915#p2

貧乏物語関連コメント http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070616#p4


淡島千景―女優というプリズム

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