本気かね? 産業政策(国策化)は必然でもなんでもないよ 小田切博『キャラクタ―とは何か』再説

TwitterでITOKさんから知る。夏目房之介氏が小田切さんの『キャラクタ―とは何か』を中野晴行氏の『マンガ産業論』と比肩するものとして手放しの称賛をしている。

http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2010/01/post-e230.html

その理由を、じつにわかりやすい文体で、簡潔に、しかし豊富な具体例をもって語った好著。産業論、市場論としては、中野さんの『マンガ産業論』以外に、これをウチのゼミでも必須の著書

ITOKさんbuz0uさん、そして表現は穏やかだが稲葉振一郎さんらが指摘しているように*1、経済関係に関心のある面々からみれば、百歩譲っても、小田切さんの今度の本は競争政策ぽいもの(著作権などの法整備…まったくといっていいほどふれてないが)と産業政策(こちらは本書に全面展開)とが理念的にごっちゃである。

 少なくとも小田切さんが「マンガやアニメといったポップカルチャーの「国策化」は不可避」と書き、事実上無条件に産業政策前提論を展開していく第2、4章、あとがきを読んでドン引きしないですますことはできない。

 夏目氏の書いたように「産業論、市場論として」は初歩的な概念の区別もついてない点で致命的にまずい本だと思う。この点については詳細にこのエントリーで書いた。http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20100105#p2

 とてもではないが明瞭とはいえず、不可思議な産業論(と文化論の統合)を読んだ気になるのが、普通の読後感であるはずだ。経済問題には詳しくないとか、ここのコメント欄で小田切さん自身がいったように経済学者が考える問題だと投げかけられても困る。著者自身が、産業論と文化論の統合を目指すと書いて、産業政策が不可避であると主張するおかしな経済論を展開しいているとしか読めない。

 ただ第三章の「キャラクターの起源と構造」は読ませる情報がある。しかしなぜこれが第三章にくるのだろうか? おそらくマンガにもマンガ産業にも詳しくなければ、本書の表題の「キャラクターとは何か」という定義がまずは最初にこないとこの分野に知識のない読者には不親切…いや、あえていえば本としての体裁をなしてさえいない。ごく一部の身内向きに書かれたとしか思えない、と以前このブログでも書いたのはこの本の構成や文章のあまりにも不鮮明さ、整理のされてなさ、意味不明な文章の多寡による。

 ちなみに以前のエントリーでは「個人的にはこの本を手放しで誉めるマンガ関係者がいればそれはかなり悪質だと思っている」と書いた。読者にはこの言葉をよく覚えておくといまのマンガ批評者たちの格好のリトマス試験紙にもなるだろう(いささかこの種の物言いが趣味が悪いのはわかってはいるがw

 ところで、中野晴行氏の『マンガ産業論』もその先駆性に敬意を表してあえて黙っていたが、この本を産業論や市場論としてみなすならば相当にまずい。俗流グローバル化による産業調整論、それと対になっているここでも無条件的な産業政策論の採用など、その議論の混乱には目を覆いたくなる個所が多いのだが……。なお中野晴行氏も当然、彼の『マンガ産業論』から予測がつくが小田切本に好意的である。コメント欄でのハニ―氏は藤本由香里氏だろうが、これも予測はできるコメントだ(もっとも第三章についての評価は僕も内容に関しては高評価である)。

 また漫棚通信ブログでは、「どの部分もドメスティックな論を廃するための啓蒙書です」とあるが、国際比較をすればすむわけでもなく、本書で採用されている日本的な「産業政策」こそドメスティックyな論の典型だろう。http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-ba01.html

 僕はこういうマンガやアニメへの無条件な産業政策論や「国策」論というのは、マンガ批評者たちに広範囲に観察できる顕著な現象であり、彼ら(彼女ら)の立場はおおむね「政府が乗り出すのは必要。ただうまくやってないので私たちの意見をちゃんと聞け」というものであろう。しかしそもそも「政府が乗り出す必要」についての考察が、本書に典型のように必然化してしまい考察のないまま放置されているように思える。

キャラクターとは何か (ちくま新書)

キャラクターとは何か (ちくま新書)

*1:稲葉さんの「もめた」とか「被害者意識」とかなる一連のコメントは、いくらその昔、『ナウシカ解読』で似たような境遇にあったとはいえ、議論以前の修辞でしかなく正直うざったいだけだが 笑 それにこの種の産業政策前提論を「存外いい本」と書いている時点で稲葉コメントも基本的にダメ。