小田切博『キャラクタ―とは何か』

 マンガ批評に本格的に関心を持ち出してまだ一年未満だが、その中で昨年読んだ評論の中ではこの本はベスト5に入る。そして同時にこの本はかなり筋ワルである。これがいまの日本のマンガ批評の現状かもしれない。たぶん今週末に出るが著者からいち早く献本いただいた。しかしこの本はいったい誰にむけて書かれているのだろうか? 彼の周囲数名程度のうけを狙ったものなのか、あるいは勘違いした官僚を喜ばせるためなのか(それはさすがにないが一読すれば喜ぶだろう)。

 しかし面識もありいろいろ教えてもらってきた身ではあるので言い難いのだが、はっきりいえば、ただおかしな産業政策論の要素を中核とする一書である。なぜ著者は彼のまわりにいたであろう経済学者たちに事前に原稿などをみせて意見をもらわなかったのだろうか? 本書の中心メッセージが、産業政策必然論になっている点をみるにつけて愕然とする。

 以下断続的にこの本の紹介をする。ただし全体評価は今書いた通りだが、もちろん全否定したくはないので個別に面白いところも紹介する。個人的にはこの本を手放しで誉めるマンガ関係者がいればそれはかなり悪質だと思っている。

 まず本書の問題意識は、キャラクターの産業論的な見方と文化論的な見方を不可分なものとして論じていくという姿勢をとるという。なぜならいままでキャラクターは文化論と産業論各々分離して論じられていたからである、という。そして本書は、「キャラクター消費」という文化と産業論の不可分な領域を語ることに費やされることになる。

 第1章は戦後日本のキャラクタービジネスの歴史を概観したものである。ここで後の章で関連が大きいのは、「需要創出装置としてのサブカルチャー」からの数頁である。著者は『ポケモン』の例のように、日本のキャラクタービジネスはホビーのもつコレクションの側面をキャラクターを媒介させて遊戯やコンテンツと有機的に結合したところに特徴をもつと指摘している。その典型が「トレーディングカード」(「遊☆戯☆王」など)である。小田切は以下のように指摘している。

「メインコンテンツがメディア間を移行してしまう「遊☆戯☆王」の持つこのラディカルなキャラクタービジネスとしての在り方は「少年ジャンプ」というそうしたビジネスを可能にするプラットホームがあってこそ可能になったものであり、そこにはおそらく世界でもっとも洗練された需要創出システムが存在している」(61)。

 第2章では、日本的な「コンテンツ産業」や「メディア芸術」についての概念の整理とその特殊性が指摘されている。この点については本ブログでも好意的の紹介したことがあるので当該エントリーを参照されたい。ところでこのような日本的な特殊な「コンテンツ産業」や「メディア芸術」などの諸概念が由来する一番の原因は、アメリカからの「外圧」であるという。つまりアメリカがベルヌ条約批准後に推進している国際社会への著作権保護と市場開放化への「圧力」にあるという。

「この点で象徴的なのは、経済産業省で「コンテンツ産業」が政策課題としてはっきり浮上してきたのがWIPO(世界知的所有機関)でコンピューターソフトやCD,DVDなどのプロテクト外しの違法化などを義務付けた「著作権に関する世界知的所有権機関条約」が策定された1986年以降だ、という事実である」80頁。

また「メディア芸術」(例の国立メディア芸術センター問題の基礎概念)についてもそれWIPOの条約策定を契機とする96年からの「外圧」の副産物であることが指摘されている。

「つまり、日本における「コンテンツ政策」も「メディア芸術」もアメリカのベルヌ条約以降の国際的な政治、経済環境の変化によって登場してきたものなのである」81頁

 ここから小田切は(僕には理解不能なのだが)「こうした状況がある以上、マンガやアニメといったポップカルチャーの「国策化」は不可避なものである」82頁と断言している。

 この「国策化」が何を意味するのだろうか? 国際的な基準に適合した著作権法の整備なのだろうか、あるいは日本の特殊な商慣習(例:再販制度)の是正なのだろうか? それらであれば理解できる面がある。しかし小田切はいわゆる「産業政策」そのものを支持しているようだ(本書でも「産業政策」と明言している)。

 ところで単純にいって小田切の文章は独特の癖がありわかりにくい(単純に意味がとれない文章も多く編集はもっと積極的に赤字をいれるべきだった)。たぶん彼は現状の産業政策(とその問題)を3つの具体例から個別に評価し、さらに現状のコンテンツ中心の産業政策ではなく、キャラクター中心の産業政策をとるべきだ、と主張していると思われる。

 現状の産業政策(コンテンツ産業中心のもの)の問題点

1)「知的財産」政策として省庁の縦割りではない「統一」した文化政策としての「知的財産戦略本部」の設置 

 これに対する小田切の指摘は意味がよくわからないが、そのまま文章を引用する。「だが、外交や通商レベルでの国同士の利害のぶつかり合いから場当たり的に生じてきた問題に対して主体的な一貫性をもつべきだ、とするのは因果関係の問題からいえば妙な話だろう。日本の場合、特に文化政策に力を入れてきたわけでもないため、フランスのような国家戦略としてそこに力を注いできた国と比べて受動的な立場になるのはむしろ必然的なことではないか」84頁。

ここで小田切はなにをいいたいのだろうか? 文意をそのままうけとると「統一的で積極的」な「知的財産戦略本部」のあり方に疑問を投じていて、むしろ歴史的経過からまた因果関係からも、省庁縦割り(通商と外交→経済産業省と外務省)の対応がいいといいたいのだろうか? 理解ができないのでより説明が加えられるべきである。

2)「国策」レベルと現場レベルの齟齬(インターフェイスの欠如)

 ここで小田切はこの齟齬の代表例として例のメディア芸術センターの例をあげている。

「先に例に挙げた「メディア芸術センター」に関する議論の紛糾などはその最たる例だが、このときの報道やその後の議論で推進・賛成派のひとびとによって唱えられた「作品の収集・保存」、「常設的な展示」、「海外への情報発信」といった諸機能が「美術としてのメディアアート」にとつてはともかく、ポップカルチャーであるマンガやアニメの産業としての振興や育成にいったいどのような役にたつかを疑問に思った人も多いのではないだろうか?だが、今後の人材育成を考えれば過去の作品や情報を集約して保存する機関が国内に存在することは決して悪いことではない。例えば過去の作品のデータベース化とライブラリ化によってアクセスが容易になれば、教育のみならず研究にも役にたつ。また、海外の研究者やエージェントなどへの問い合わせ窓口としての機能を持たせられるのであれば、これもきわめて有用な施設である」85頁。

 小田切が指摘する「有用」な諸点が産業政策として支持できるかといえば、答えは基本的にはノ―であろう。産業政策をみたす用件をみたしていないからである(下の産業政策についてのエントリー参照)。小田切の指摘する点は一部は、産業の育成・振興のための教育・研究への公的介入である。しかしそれを正当化する外部性があるだろうか? 例えばあるマンガ会社が過去のマンガリソースを利用してそれに投じた資金が市場で回収されれば、政府がわざわざマンガリソースの利用に税金を投入する理由はない。同じことだが、マンガ家を志望する学生がいたとしてそれが過去のマンガリソースの利用にお金がかかったとしても彼がその資金を後に市場で回収できるならばわざわざ政府が産業政策として支援する必要もない。

 または「問い合わせ窓口」については政府の方が民間よりも知っている必要がある。ところが本書を読むと、これが本書の抱える最大の矛盾点だが、政府はいまだコンテンツ中心の発想を抜けられず、民間が無意識?に前提しているキャラクター中心のビジネスの発想に劣るというのが本書の指摘だろう。となると小田切の発言をそのまま読むと政府は民間(小田切含む)に情報の点でも優位していない。ゆえに産業政策はこの点では正当化されない。

3)経済産業省傘下のJETROの活動は有意義だが、制作サイドやファンたちは「放つておいてほしい」という無関心という齟齬がある。

 「経済産業省傘下のJETROは市場調査だけではなく、こうした海外企業との契約に関するサポートを行っているし、カンヌやベルリンといった映画祭やゲームショーなどの国外のコンペティション(見本市・商談会)への日本企業の出展を支援する活動も行っている。ごく単純に考えても今後こうした行政サービスの必要性は増しこそすれ、減少することはない」87

 いや、違う。ごく単純に考えると、「今後こうしたサービスを行政が行うべきかどうか」まずはそこから考えるのがいいだろう。そして小田切のあげたものをJETROが行い理由を見出しがたい。


 さて本書の中心メッセージはすでに書いたが従来の「外圧」によってうまれたコンテンツ中心の産業政策やそれに基づく様々な意見を批判的に見、他方でキャラクター中心の産業論、産業政策の重要性を説くものである。ただ具体的な解法を与えるのではなく、著者の言う通りだとするならば問題の切り分けと整理をすることにあるという。すでにここまで見たように、問題の切り分けと整理の点でまったくダメである。少なくとも著者のいう産業政策の理解は意味が不明である。

 第三章も第4章も中味を読んでも僕には以下の感想ぐらいしか抱かなかった。

 さらにこれもよくわからないのだが、キャラクターのプロパティ―(所有権)を明確にすることが政府に求められているし、その意識が政府にもまた現場サイドにもないらしい。しかしそれは本当だろうか? 少なくとも二次創作市場を中心にキャラクターのプロパティ―をめぐる問題は議論されてきたし、また法整備をすすめる機運もあるのではないか?

 そしてキャラクターのプロパティ―を明確にするということが法整備で求められるとするならばそれはそれで本書の問題提起にはなる。しかしその程度だと本書の大半が不用である贅言でさえあるだろう。少なくとも産業政策などは不要である。まさに現場サイドやファンたちの言葉ではないが、法整備さえ整えればあとは政府の介入などいらない、放っておけばいいのだ。JETROもメディア芸術センターも補助金も減税も人材の保護・育成もまったく関係ない。

 もちろん日本においてキャラクターの所有権をどのように経済的に基礎付けるか。それはそれで固有も面白さがあるだろう。だがそういう指摘をする上での問題の整理と区分けに小田切はあまりうまくやっているように思えない。その証拠は上に長々と書いたのでもういいだろう。

キャラクターとは何か (ちくま新書)

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