社会的に必要だとか、弱者を救済だとか

 本当にその手の文句になぜ人は無思考的になるのか? グリーンニューディールも「環境にやさしい」新技術開発、というだけでなんだか、社会的に必要で、環境弱者にやさしい、とこれまた安易に支持してしまう。これじゃあ、「郵政民営化で停滞打破」とか「構造改革なくて景気回復なし」だとかの空虚な修辞が支持されるわけだ。本当にその手の文句は、相当慎重に持ち出さないと、ただのオレ様(あるいはオレ様たち既得権益集団)の価値観を信じろ、という物言いと同じにしかすぎないわけだが。社会的に必要と弱者救済「だけ」ですめば、経済学なんていらないね。また本人は「だけ」のつもりでなくても「だけ」の議論になっていることにも無頓着。実際に、例えば「社会的に必要」であることを経済学と折り合いつけるだけでものすごい跳躍しなくちゃいけなくて、それは経済学的な思考とペテンの境界線を綱渡りする作業なんだよなあ。そういうのを本当に考えて「社会的に必要」だとか「弱者救済」だとかいってるのだろうか?

 ちなみに安易に「社会的に必要」だとか「弱者救済」だとかを持ち出す人は、「郵政民営化で停滞打破」だとか「構造改革なくして景気回復なし」というような文句にしびれちゃっているのと同じで、どの問題にどの政策を割り当てるのがいいのか、つまり問題と解法の適切な組み合わせに無頓着に思える。すべて「社会」や「構造」が包括して複雑なコミコミ問題でも提起しているとおもっているんじゃないのかな。でもそれってただの自分の思考の未整理をただぶちまけてるだけにすぎないと思うんだよね。

 それとこの政策割り当てを無視した議論には、僕は一切譲れないわけ。もう覚えている人も少ないだろうけど、高橋洋一さんが「郵政が資金の流れをゆがませてそれが停滞の主因」みたいなことを書いたこと(これも政策割り当ての錯誤の一例)で、延々ブログその他でやりあって、彼の貢献が一面で真っ黒と真剣にいまでも思っている。